むげんだい

main story

6話 思い出せない






 優等生。そのレッテルを最初に貼られたのは、小学校に通いだして半年たった頃。その頃は、その言葉がとても甘い飴玉のようだと感じていた。中学生にもなると、だんだんと煩わしくなってくる。高校生になった頃には、もはやそれは自分に付いて回るものになり、切っても切れないもの、そうでなければならないものになった。波風立てず、よく話を聞き、決して逆らわず、理想の息子、理想の生徒、理想の友人であり続ける。飴玉とは程遠い、重たい枷、溶けないビー玉だった。

 そんな“優等生”の真継が、大学生になって2年目の春。彼は人知れず、小さな興奮と大きな不安を胸の内に抱えていた。親の承諾もほとんど得ないまま、バンド結成を期に大学の友人とルームシェアを始めた。
 無許可、バンド、ルームシェア。ピアノは習わせるくせにギターは買わせないような人間――いわゆる旧時代的な堅物――にとっては、聞くだけで卒倒するような文言のオンパレードだ。それらを堅物代表の両親に投げつけて、颯爽と家を出てやった。実際のところは、あの日真継が帰宅したとき既に、悲壮な顔をした母親が、真継の荷物をまとめるためのダンボールをご丁寧に用意してくれていた。何があったのかは、わざと聞いていない。
 何かが始まる、あるいは、変わる。
 この環境の変化は、真継が期待に胸を膨らませるには十分過ぎるほどのインパクトを携えていた。


 “優等生だった”真継が、これまでの人生と比較して特異な環境で過ごし始めてから3週間。1日だけだが、ようやく休みらしい休みができた。共に暮らす5人も、思い思いに過ごしているようである。平介と新八は実家に顔を出しにいったし、香兵衛は万莉を連れて買い物に出かけていた。
 真継も当初は実家に帰るつもりだったが、当日思い直して家で大人しくしていることにした。なんとなく、帰ることが躊躇われたのだ。顔を出せと頻繁にメールが届いても、適当な理由をあれこれと並べて誤魔化した。適当な嘘を吐くのにも、真継には相当な勇気が必要だった。まるで遅れてやってきた反抗期のようだ、と真継は自身を嗤ったが、決して無意味に抗っているわけではなかった。これは自分なりの、巣立ちなのだ。

 いつもより静かなリビングで、真継は2人分の紅茶と菓子を盆にのせた。中学生の頃の数少ない女友達の影響で紅茶に興味を持ち始めてから、随分こだわるようになった。しかし、ある程度正しい淹れ方さえすれば、あとは茶葉の質だとか茶器の種類だとか以上に、一緒に飲む人と楽しい時間を過ごすことが、美味しさの秘訣だと最近は考えている。
 盆を片手で支え、少し遠慮がちにドアをノックする。物音が少し聞こえたあと、様子を伺うようにドアが小さく開かれた。驚いた顔をした稔が、ドアの隙間に見える。稔は盆に2人分のものがあることに気づくと、ドアを引いて真継を招き入れた。今この家は、稔と真継の2人きりだった。



「……なんで」
 酷く驚いていた稔は、小さなテーブルを挟んで向かいに座る真継に、思ったままのことを投げ掛けた。
 ――なんで、あんたが、俺のところに。
 稔の感情は表情にピタリとシンクロするわけではない。平介のように表情に乏しいわけではないが、何を考えているかは読み取りにくいのだ。真継は、稔の問い掛けが、迷惑だという意を含んでいるように感じた。
「ごめん、もしかして、ギターの練習とか、してたかな?」
 眉を八の字にして、苦笑いを浮かべる。「邪魔だったか」と聞かないのは、相手が返答しづらくないようにするためなのか、邪魔してしまったと自分で気づきたくないためなのか。
「あ……いや、そういうわけじゃ。すんません、驚いただけっす。いただきます」
 稔は弁解すると、手元のティーカップを手に取り、紅茶を一口啜った。稔の乾いた唇が湿る。
「お菓子もぜひ食べて! 近所のケーキ屋さんで売ってるクッキーなんだけど、すごく美味しいから」
 稔が紅茶を口にしてくれたことが嬉しくて、真継はパッと顔を明るくする。真継は、初めて会ったときから、なんとなく稔が苦手だった。稔はもともと付き合わない部類の人間である(それを言えばほかのメンバーもそうだが)。さらに言うと、近寄り難くさえ感じた。稔が真継に対して警戒心を持っているように感じていたからだ。
 だから、ひと時でもその警戒心を解くことができたのかと思うと、嬉しかった。
 加えて、1週間ほど前に、稔が随分と気を動転させていたのをずっと気に掛けていた。自分が原因のように思えてならない。ワインを血と見まごうなど子供じゃああるまいし、と思ったが、床に広がる赤は、確かに自分でも血に見えた。稔の動揺ぶりも明らかにおかしかった。血が苦手というだけではなく、ほかに何か理由があるような気がする。今すぐにその理由は明らかにならなくても――あるいはずっとわからないままだとしても、真継は稔を安心させてやりたいと思った。それでなくとも、ひとりだけ学年が違うことで、心細く思うこともあるだろう。だから、フォローしたい。周囲のフォローは、優等生だった真継の得意分野だった。
「蓮田くんって、どういう絵を描くのが好きなの?」
 真継は、デスクの脇に立てかけてあるキャンバスを指して言った。キャンバスは白く、まだ何も描かれていない。油絵を描くのが趣味だと聞いていたが、彼が絵を描いている姿はまだ見たことがなかった。
「人物画が、一番描いてて楽しいすね」
 そう言いながら稔は、キャンバスを手に取って表面をさらりと撫でた。切れ長の目を細める様子は、キャンバスの白の中に何かを見出そうとしているようだった。
「人、描くの難しそう。あ、ねえねえ、今度描けたら見せてよ」
「ええ、近いうちに」
 真継に微笑み返した稔が、キャンバスを床に置く。
 しん、と部屋が静まりかえる。車の走行音が外からよく聞こえた。2台、3台。真継は慌てて次の話題を振ろうとした、が、それは稔の言葉で遮られる。
「ねぇ、センパイ」
「え、あ、はい、な、なに?」
「センパイのこと、教えてくださいよ」
 真継は瞬きをした。ぱちくり、という表現がぴったりだ。真継は、稔が自分との会話に積極的だとも思っていなかったからだ。まして自分に対して聞かれるとは、想像もしていなかった。
 しかし、思い返して見れば、距離はあっても、視線や声で興味を示されていることには薄々と気づいていた。稔は好き嫌いをはっきりと表現する人間である。それを真継も理解していたから、嫌われていないことがわかって安心した。
 波風立てないためには、嫌われないことが重要なのだ。

「俺のことかあ。いいけど、そんな面白い話あったかな」
 真継は腕組みして最近のことを思い返してみる。うんうん唸っている真継を見て、稔は声を出して笑った。
「いいっすよ、オチとかいらないんで。ていうか期待してないんで」
 なぜ笑われたのかわからない真継は訝しげに首を傾げたが、なんとなくバカにされたのはわかって、口を尖らせる。しかし、嫌な気分になったわけではなく、むしろそういう風に会話できることで、仲良くなれていると感じた。近寄り難いというイメージは、なくなっていた。
「はは、じゃあ何から話そうかなぁ。俺、お喋りだよ」
「何からでもどうぞ、適当に聞き流すんで」
 稔は菓子を口にしながら軽口を叩いた。今の彼は、言っていることと思っていることなど、まったく噛み合っていなかった。
 聞き流すわけがない。

――あんたがこの世でどう生きてきたのか、俺は何も知らない。それを知りたい。
あんたが俺の知ってるあんたなのか。
俺はまた、あんたを好きになるのか。

 一言一句聞き漏らすものかと、稔は真継をじっと見つめる。口に放り込んだクッキーの柔らかい甘さが、じんわりと広がった。



 2時間近く話していた。2杯目の紅茶も残りわずかだった。真継は稔の受け答えが面白いこと、間が良いことで、話したいように話せていた。稔も、真継の柔和な声と豊かな表情に安心して、すっかり身構えなくなっていた。横に並んでベッドに座る2人の距離も近い。
「……ってことがあって。香兵衛先輩ほんと落ち着けって思った」
「それ前も同じことありましたよね、それで瀬田先輩が半泣きだったって」
 稔は、真継が香兵衛のことを先輩と呼ぶことを、疑問に思わなかった。今の真継は香兵衛含むほかの4人と同じ年齢だったが、稔の知っている真継――つまり前世の真継――は事実、彼らよりも1つ年下だった。そんな細かい違いはあっても、稔にとって、真継は真継でしかなかった。
 しかし、同じでは、ない。

「……“同じ”こと、あったっけ?」

 真継の言葉に、稔はサッと身体が冷えていくのを感じた。
「あー……」
常ならば適当な言葉を並べてはぐらかすのだが、少しの期待が邪魔をして、うまく声に出せなかった。真継の伺う瞳が、「何か」を知っていて、そう言っているように見えたからだ。
「覚えてないですよね」
 だから、思わせぶりな言葉を吐いてしまう。「勘違いでした」と言うつもりだったのだ。稔は、心臓が馬鹿になったのかと思うほど、心拍数が上がっていることに気づいた。脳が揺れる。

「俺は、覚えてない。けど、蓮田くんは、覚えている?」

 真継の言葉に、稔の期待は確信に変わった。
 この人は、「何か」を知っている。