むげんだい

main story






 キッチンの床が元の綺麗な白さを得た頃に、真継がリビングに戻ってきた。服も着替え、さっぱりした様子である。それまで真っ青になって唇を噛んでいた稔も、ようやく震えが収まったようだ。真継が無事戻ったのを確認した香兵衛は2階の自室に戻り、香兵衛と平介の仲を気にしていた新八も、香兵衛を追うようにしてリビングをあとにした。稔が落ち着いたのを確認した真継も、部屋に戻った方が稔は安心すると判断したのか、「片付けてくれてありがとう、おやすみなさい」と残った3人に頭を下げ去っていった。
 リビングに残ったのは、万莉、平介、稔の3人だ。

 稔は、真継の背中を追うようにしてリビングのドアをぼんやりと見つめ、胸につかえていた物を吐き出すように小さく深呼吸をした。深呼吸は、自身の情けなさに対するため息のようでもあった。
 誰も言葉を発さない夜のリビングは、時計の秒針の揺れる音がよく響いた。

 万莉には、“過去の記憶”がある。
 同じく過去の記憶を持つ平介や稔が、それを持たない人間に対して妙な態度を示していた。万莉は、できることなら関わりたくないとだんまりを決め込んでいたが、そうもいかなくなってきたようだ。その過去で万莉が大切にしていた香兵衛や真継に、過去の記憶を持つ彼らが無理をさせるようなことが今後起きるというのならば、それは万莉の本意ではない。本当にその考えで、その行動で、その感情で良いのかと、口を挟まないわけにはいかない。万莉は面倒を嫌うが、大切にしていた人間が騒ぎの渦中にあるのを放っておくほど甲斐性なしでもない。さらに言えば、万莉が大切にしていた人間の中に、もちろん平介と稔、それから新八も含まれるのだ。
 「我ながらこの5人にはつくづく弱い」と万莉は再認識する。ある程度香兵衛の強引さはあったものの、人付き合いを面倒臭がる万莉がそうそう同居を許すはずがない。この5人ならば、という気持ちが、万莉自身でも気づかない小ささで存在したのだろう。

 万莉は、平介や稔のように、今に生きる誰かと過去の記憶を共有する気はなかった。そもそも記憶を持つ人間に出会ったことさえ初めてなのだ。とはいえ、記憶を持つ人間との折り合いの付け方を今から悩んでいる暇などない。躊躇っている場合ではないのだ。今この場で、この腐れ縁の記憶の扱い方を決断しなければならない。

「……平介、レン。一体何があったのか、話してくれるかな。私や君たちが持つ記憶について。それから、“私”が死んだあとについて」
 万莉が過去の話に初めて自ら触れる。その場の空気が、大きく揺らめいた。
「ああ、……わかった」
 平介が、頷くこともなく、ようやく絞り出した声で答えた。その場にいた3人ともが、手のひらにじんわりと汗がにじむのを感じていた。夜は更け始めたばかりである。



「……そっか」
 平介が淡々と聞かせた過去は、万莉が予想していたよりも壮絶なものだった。あれだけ気持ちを拗らせているのだから、何かがあったのだろうと身構えてはいたが、これほどまでに波乱に満ちていたとは、さすがに万莉も思わなかった。
 遠い昔、今この家に住む6人の前世が、町の手習所で出会い、かけがえのない柔らかく幸せなときを過ごし、最期には無惨にもばらばらに死に別れていくまでの話。なんの教訓にもならないただの昔話。平介が語ったそれは、万莉もよく知ったあたたかい思い出だった。
「……聞いてもあまり楽しい話ではなかったよな。すまない、けど、ありがとう」
 向かいの椅子に座る万莉に平介が頭を下げる。
「……」
 万莉はうまく返答できないまま、眉間を抑えて俯き、黙り込む。珍しく言葉を詰まらせる万莉を前に、話を聞かせた平介本人も、言葉を待つしかなかった。平介の隣に座る稔はというと、ぴくりとも動かず、ただ平介と万莉の会話を聞いているだけだった。
「……私は」
 丁寧に言葉を選びながら、万莉がぽつぽつと話し始める。
「……私は死に際、残していく仲間のこれから先の人生が、幸せなものであれば良いと思ったよ」
 万莉は――正確には万莉の前世は――6人の中で最も早く死んだ。寿命ではない、自殺だ。
 決して生きるのが辛くなったなどという理由ではなく、のっぴきならない事情があったためである。しかし、その事情がどうであれ、仲間たち5人に大きな衝撃を与えたことは言うまでもない。あの日から、徐々に6人の人生が大きく捻じれていった。
 万莉はなおも続ける。
「自分の人生にそれなりに満足はしていた。けど、あの時、こんな風に終わりを迎えるのは自分だけならいいと願った。まぁ、置いていった側の勝手な言い分だけどね」
 しかし話によると、万莉の願いに反して仲間たちはひとり、またひとりと、事件に巻き込まれる形で死んでいったらしい。最後に、平介を残して。
「だから、君たちを庇って死んだ彼らが私と同じ気持ちだったのなら、君たちに悔やんでほしいとは思っていなかったんじゃないかな。それこそ、来世に持ち越してまで」
 誰が悪いわけでもなかった。好意と愛情と寂寥と、それから小さな欲。これらが折り重なった結果の話である。今の万莉ならそう纏め上げてしまうことができた。しかし、自分の愛する人間を自分のために死なせてしまったと思っている平介と稔は、そうやって片付けてしまうのは不服だった。無論、その複雑な気持ちがわからない万莉ではない。
「……まぁその真偽はともかく、君たちがなんでそんなに辛そうなのかはわかったよ」
 平介がどれだけ香兵衛を大切にしていたか、稔がどれだけ真継を必要としていたか。そのことをよくわかっていた万莉は、2人が辛い気持ちを抱えて生きて、どれだけ苦しんだことかと容易く想像が付く。本来ならば万莉もそちら側の人間だったのかもしれないが、あいにく万莉は、過去に区切りを付けていた。前世は前世である。例えそれを生々しく覚えていようとも、今自分たちが違う時代に違う生を持って生きているのは確かで、決して前世の自分と今の自分は同じものではない。混同してはならない。なぜなら、前世の記憶を持たない人間がいるからだ。皆が記憶を持っているというのなら話は別だが、むしろ前世の記憶など持っていない方が一般的だ。そんな彼らに、前世ありきの付き合いを求めるわけにはいかない。
 だからこそ万莉は、この話を持ち出すのを避けていたのだ。

「それで、君たちは今後どうするつもり? 私に何を望んでいる?」

 出会い頭に記憶の有無を問われたことを、万莉はよく覚えている。まさか有無を確認してそれで終わりというわけでもないだろう。

「それは……いや、まずは、記憶があるだろう万莉と、話をしたかった。何かを求めるつもりだったわけじゃない」
 平介はそう言ってから視線を一旦床に落として、もう一度万莉を見据えて言う。
「ただ、協力してくれると言うのなら、香兵衛に記憶を思い出させるために協力してほしい」
 平介は膝の上の拳をきつく握る。何か失敗したときのような、背筋が冷えるのを感じていた。稔以外の人間に、香兵衛に記憶を思い出させたいということを言ったのは初めてだった。口に出せばもうあとには戻れない、そんな気がしていた。

「……思い出させて、どうするつもりなの?」

 万莉の問いは、最もであった。何も知らないまま生きられるはずの彼らが、わざわざ死んだ記憶を思い出す必要などない。
「それは、……まず、謝りたい。死なせてしまったことを、」
「なら協力はできない」
 平介がすべてを言い終わる前に、万莉は答えを返した。それに対して平介が言い返そうと口を開きかけたが、それも許さないまま万莉は問いを重ねる。
「謝ってそれでどうなる? 平介の気が済む? それで終わり? ……昔のように、香兵衛に想われたいんじゃないの?」
 万莉が矢継ぎ早に浴びせた言葉は、非難の意を含んでいた。万莉の香兵衛に対する思いやりと正論は、平介の胸に刺さる。平介は言葉を見つけられず、ただ万莉を見つめるしかできなかった。

 わかっている。
 いや、わかっていなかったのかもしれない。前世の記憶などこのままない方が良いかもしれないことも、謝っても自分の気が済むだけであることも、それを建前にして、本音ではまた香兵衛と時を過ごせるようになりたいと思っていることも、ふわふわと浮いた状態で、ただ「思い出させたい」という曖昧な言葉でうやむやにしていた。思い出させたいと息巻いておきながら、中身は見えてなかったのだ。目の前で突然起きている出来事に目を回して、中身を見る余裕がなかったのだ。

「……君が私の知っている君ならば、君はもっと誠実な男だったはずだよ」
 違うかい、と困った風に笑う万莉を見て、平介はようやくこんがらがっていた一本の糸がピンと張ったように、考えがすっきりした。
「そう……だな。俺がどうかしていた。俺は今でも、ただ、香兵衛のことが好きなんだ」
 突然の告白に万莉は驚くが、どうやら平介が調子を戻してきたらしいことがわかった。足を組み替えながら相槌を打ち、平介に続きを促した。
「だから、前のような関係に戻りたいし、共にいた事実を、思い出してもらいたい。それは誰のためでもなく、俺のためであり、ただの我が侭だ」
「謝りたいっていうのは?」
「それに至るまでの過程のひとつだ。香兵衛が記憶を思い出すことで、香兵衛自身が傷付くかもしれない。それでも、俺は俺の我が侭のために、思い出させたい」
 先程までは揺らいでいた平介の瞳は、何かを捉えたように真っ直ぐになっていた。もう心配はしなくてもよさそうだ、と万莉は判断し、頷いてみせた。
「……平介の言い分はわかった。私は、覚えていないならそれで良いと今でも思っているけど……平介がそうしたいならそうしたらいい。助長まではしないけど、フォローくらいはするよ」
 万莉の理解を得られたことに、平介はひとまず安堵する。記憶を思い出させる手掛かりが見つかったわけではないが、理解者が増えたことで、1歩も2歩も前進した。
 しかし、それだけで話を終わらせてしまうにはまだ早い。

「……さっきからずっと黙ってるけど、レンはどう思ってるの?」
 平介と香兵衛のことはわかったが、稔の考えが見えない。稔は置物のように微動だにせず、ただ万莉と平介の会話を俯いたまま聞いているだけだった。
 万莉に話を振られて、とうとう自分も話さねばならないか、と観念した稔は顔を上げた。覇気もなく、どこか遠いところを見つめているようだった。
「……俺はまだ、どうしたいとか、明確には」
 言葉を濁している様子に、万莉は首を傾げる。過去稔は、あれだけ真継を愛していたし、悪く言えば酷く依存していた。だから稔も、真継の記憶を取り戻したいと考えているとばかり思っていた。
「現状に満足している……わけではなさそうだけど?」
 万莉の言葉を補足するように、稔が繋げる。
「例え記憶が戻っても、昔のようにいられる保証はないし、記憶を取り戻すことで先輩のことを傷付けたり、離れられたりするかもしれないと思うと……」
 素知らぬ顔で近くにいられる現状に甘んじているしかない、そう言いたいらしい。物事ははっきり言う、物怖じしないあの稔から発せられる言葉とは思えないほど、歯切れの悪い回答だった。
「……そうかい。まぁ、決断を急かしているわけじゃないさ、2人の考えを把握したかっただけだよ」
「情けないっすよね、ほんと、どうにもなんなくて」
 自嘲気味に笑って天井を仰ぐ。稔自身もそろそろ決断したいと思ってはいるが、とても踏ん切りが付く状態ではない。愛する人に拒絶されるリスクを背負えるほどの覚悟も、現状の微々たる幸運を捨てる勇気もなかった。

 同じように記憶を持つ3人だったが、それの考え方や扱い方はそれぞれ異なっていた。そんなお互いを理解した上で、どちらからともなく、3人は昔話を始めた。年月で言えばそれはもう二百年近く前の話なのに、本当につい最近のことのように感じたし、そのつもりで話していた。考えや扱い方は違えど、大切な思い出であることは、やはり同じなのである。
 3人はしばらく時を忘れ、ときには大笑いをして、二百年越しの昔話に花を咲かせた。



「ところで今更なんだけど、君たちはなんで私に記憶があるって確信できたの?」
明け方部屋へ戻ろうとリビングのドアに手を掛けた万莉が、ふと振り返って尋ねる。
「俺たちがお前にとって赤の他人だったら、あんなにあっさりお前が同居を受け入れるとは思えない」
「そもそもあの食堂で、一緒のテーブルに大人しく座ったりなんかしませんよ」
「ふ、なるほど確かに」
 簡単に答えてみせた2人に、万莉は思わず笑ってしまった。
 彼らは互いを良く知る、旧友なのだ。