むげんだい

main story

5話 旧友






 今朝になってひょっこり家に帰ってきた香兵衛は、何事もなかったかのようにへらりとしていた。
 リビングのドアを開けて「ただいま」と挨拶をした香兵衛に、新八が駆け寄る。今日は全員休日の土曜日。皆でリビングに集まって、少し遅めの朝食をとっていたところだった。5人の視線が一斉に香兵衛の方へと向く。万莉も、香兵衛のことが気になっていたところだった。

「いやー、昨日は急に外泊してホントごめんねー」
 両手のひらを擦り合わせながらそう謝る香兵衛の頭を、新八がガシガシと撫でる。
「ったく、心配させんなよ! お前らちゃんと仲直りしたのか?」
 僕の前髪が崩れるでしょ、と笑いながら新八の手を払いのける香兵衛の表情は、いつも通り冗談を言っているだけなのに、万莉にはどこか神妙に見えた。
「もちろんだよ! てか、別に喧嘩したとかじゃないし。ね、戸塚」
 そう言って香兵衛は食卓に近づき、前髪が短いせいで剥き出しになっている平介の額をパチンと軽く叩いてみせる。それから一言、小さく耳打ちした。香兵衛の行動に、正しくは耳打ちの内容に、平介は一瞬目を見開く。手にしている食パンからは、ぼたりとジャムが落ちた。

 朝食はとってきたからと、そのまま香兵衛はリビングをあとにし、2階へと向かった。昨晩の平介の様子からして、香兵衛と平介の間に何かがあったのは間違いなかったが、香兵衛はこの場でそのことについて話したくないようだった。新八と真継は、あっけらかんとした態度で去っていった香兵衛が閉めたドアの方を見つめ、悩ましげに眉をしかめる。心配でしょうがない、そういったところだ。それに対して万莉は、心配よりも驚きの方が大きかった。
 香兵衛が平介に耳打ちした際、「もう少しだけ待ってて」と、しっかりした口調で告げていたのを、万莉は聞き逃さなかったのだ。その香兵衛の表情は万莉にとって“見慣れた”表情に近かった。万莉は口元を指で隠すようにして、もしや、いや、そんなまさか、と思案する。チラリと稔の様子を伺ってみれば、彼は耳打ちの内容が聞こえていなかったようで、ただ何があったのか、平介を心配しているようだった。それはおそらく、新八や真継が心配しているのとはまた違った意味で、である。

 午後以降も昼食を一緒にとったり、楽器の練習の具合はどうかという話をしたりして6人で過ごした。しかし、昨日の夜に香兵衛がどこにいたのか、何をしていたのか、何を考えていたのか――とうとう語られることはなかった。
 平介は、妙なことを言って困らせた挙句、恋人だなんだとまで口走ってしまったものだから、香兵衛が何事もなかったかのように接してくれることに救われていた。反面、本当に何もなかったことにされてしまったようで、寂しい気持ちもした。2人の距離は変わらないままだと、言外に突きつけられている気がしてしまう。とはいえ、話を自分から蒸し返そうという気にもなれなかった。香兵衛が「待ってて」と告げたことを信じ、待つしかなかった。



 その日は本当に平穏に過ぎていった。平介と香兵衛の様子に警戒していた万莉も、もう何も起きないのではないか、と楽観視したくなるほど穏やかだった。しかし、それはすぐに崩れ去ることとなる。


 夕食後、今日の片付け当番である万莉がキッチンで洗い物をしていると、「お手伝いします」と真継が顔を覗かせた。様子を伺ってくるその表情に、万莉は、自分が今日一日気を張っていたことを、敏い真継に感じ取られたのだろう、と気づいた。正直なところ、ひとりにしてくれて構わない、と思ってはいる。この家に住む面子と顔を合わせていると、余計なことまで考えてしまい疲れるのだ。しかし、真継に悪意はないし、余計なことを考えてしまうのは自分の問題でもある。何も考えなければ良いだけのことだ、と思い直した。
「夕飯の当番は君だったろう? ……でも、ありがとう」
「とんでもないです。むしろ、調理中の道具やら調味料やら、俺結構散らかしっぱなしなので、やらなきゃと思って」
「そっか。じゃあ、私が洗うから、流してもらっていいかい」
 真継が万莉に対して――というよりは、稔以外の同い年であるメンバーに対して――たまに敬語を使ってしまうことも、万莉が持つ悩みの種のひとつだった。指摘して直させるべきか、そのままにしておくべきか、どちらにしようか迷っている。真継本人は間違えてしまうことを自分でも不思議に感じているようで、ときどき「あれ、ごめん、また間違えた」と訂正している。万莉は今更彼が直せるとは考えておらず、結局言わせるままにしていた。
 染み付いたものは離れないのか、と“何も知らない”真継が隣でのんきに皿の泡を流す姿に、目が彷徨った。
「ありゃ、先客がいたかぁ」
 洗剤を手に取ったとき、新八がカウンター越しに話しかけてきた。
「そうみたいだね」
 一瞥して最低限の返事をすると、視線を落としてスポンジに洗剤を出す。新八が雨に濡れた子犬のような目をしてキッチンに入ってくると、万莉は新八が何を言い出すのかもうほとんど予想がついた。ずっと心配しているのだろう、彼らのことを。
「狭いんだけど……」
「わ、悪い……。でも、なあ、あの。あいつら、どう思う?」
「香兵衛……と、平介くん、ですか? 心配ですよね……」
 新八の言葉に、待ってましたとばかりに真継が食いつく。平介の幼馴染である新八なら、うまく何とかしてくれるのではと思ったのだろう。
「平介さ、気に入らないことがあったら本人に言うような奴なんだ」
 だから、今回みたいに喧嘩の理由話してくんないの、心配なんだよなぁ。新八はそう続けながら、片付けの手伝いを始める。決して人当たりが良いとは言えない平介の人間関係をいつも支えていたのは、新八だった。



 真継と新八が話し込んでいる傍ら、万莉はふと首を傾げた。
 昨日香兵衛と平介の間に何かがあった事実はともかくとしても、平介の様子はどこかおかしかった。なぜあんなにも必死で、辛そうで、“彼らしく”ないのか。平介にとって香兵衛や自分を含む5人は、旧知とはいえ前世の話である。記憶がない方が一般的だ。それが例え、どんなに大切な相手だったとしても、すべて過去の話だ。記憶がないことなど、容易に想像できたはずである。出会えたことだけでも十分な幸運なのに、なぜあんなに苦しむ必要があるのか。平介は、自身のペースが乱れるほどに、前世に囚われている。
 反対に、同じく記憶のあるらしい稔の方は、落ち着いているように見えた。稔は淡白な人間だったが、こと真継に関しては、人一倍依存と執着が酷かった。だから、記憶がある状態ならば、平介よりも稔の方が動揺して不安定になっていると思っていたのだ。
 平介には前世に悔いがあって、稔にはなかった、ということだろうか。しかし考えても知りようのないことだ、なにせ自分はこの6人の中で一番初めに――


 不意に、耳障りな甲高い衝撃音が家に響き渡った。万莉は反射的に音のした方、新八と真継の方を見ると、彼らの足元には瓶であっただろうガラスの破片が散らばっている。柔らかなオフホワイトのタイルで埋められているキッチンの床は、鮮やかなワインレッドの海になっていた。
「すみません!」
「す、すまん!」
 互いに謝る真継と新八。おそらく新八が瓶を肘でついたか、手元が疎かになっていたかして、落としたのだろう。料理に使った赤ワインを片付けていなかった真継と、狭いキッチンに入ってきて面倒を起こした鈍くさい新八。五分五分、いや、二分八分か。万莉は大きくため息をつく。
「……この馬鹿犬」
「す、すま……え、犬?」
「ともかく片付けよう。真継、怪我はない?」
「え……あ、大丈夫です、スリッパ履いてるから足元も特には」
 幸い怪我はなかったものの、新八のすぐ隣にいた真継はワインを被ってしまい、着ている薄いグレーのスウェットは腹から足元にかけてまばらに染まっていた。服の下にも染み込んできて、真継の身体に布地が張り付く。
「ちょっとここで絞っちゃって良いかな」
 シャワーを浴びにいくにしても、このまま浴室まで歩けば床を汚してしまうだろう。真継がズボンを膝までたくし上げて絞ると、既に広がるワインの上に、ぽたぽたと赤い雫が垂れた。あまりにも鮮やかで、それは何かに似ている。
「ほんとごめんな、今タオル取ってくるから!」
 真継にワインをかけておきながら、瓶を割った当の本人はあまり被害がないらしく、新八は眉を八の字にしてへこへこすると、慌ててタオルを取りに向かった。万莉も特に被害はなかったため、ガラスの破片を片付けることにする。万莉がちりとりを取りに行こうとしたところで、音を聞きつけた香兵衛、平介、稔がリビングに入ってきた。
「なになに、どしたの?! 大丈夫?!」
「ああ……ちょっとワイン落としてね。大丈夫、怪我はないし」
 真継の服と床が汚れたくらいだからそこまで心配はいらない、と万莉は3人をあしらった。キッチンに踏み込んでガラスの破片を踏まれでもしたら、それこそ大変なことになる。二次被害は避けるに限る、と万莉は3人をキッチンから離れるように押し返した。

「せん、ぱい」

 押し返した、のたが。稔はそれに逆らって、万莉の横をするりと抜けキッチンに入り込んだ。まっすぐに真継の目の前まで向かう。
「は、蓮田くん、破片が落ちてるから危な……」
 慌てて真継が稔を止めようと手を伸ばすと、逆に稔が真継の腕を掴んで、真継が怯んでいる間にそのまま距離を縮めた。ぴちゃり、と二人の足元の赤が波打つ。
「先輩、怪我、怪我は」
 稔はすっかり気が動転しているようだった。何かに怯えるように目を見開いて、顔を真っ青にしている。掴んだ腕から震える手をずらし、真継の服を強く握り締める。稔の手にも、赤い液体がじわりと滲んだ。
「せんぱい、血が」
 真継は稔が尋常ではないほどに動揺していることに気づくと、宥めるように稔の肩に手を添えて、柔らかい声色で落ち着かせようとする。
「大丈夫、怪我してないよ。血じゃないからね。ワインで服が汚れただけだから。ね、安心して?」
「せんぱい、」
「部屋着だし、気にすることないよ。大丈夫。ね?」
 真継は幼い子に言い聞かせるように、念を押すように、稔の腕をゆっくりとさすって、優しく宥める。
 稔の様子に唖然としていた万莉は我に返ると、渋い顔で眉間を抑え、平介に助けを求めた。
「ねぇ君、ちょっとレンのこと落ち着かせてやってよ」
 話を振られた平介は驚いたような顔をしたが、すぐに頷くと、真継から稔を引き離すようにしてキッチンからリビングへ連れていった。
「真継、シャワー浴びておいで。タオルで脚拭いてからね」
 ちょうど新八がタオルや雑巾を抱えて戻ってきたため、万莉はタオルを1枚受け取ると真継に渡す。真継は稔を心配しつつも、万莉の言葉に素直に頷いて、軽く脚を拭き浴室へと向かった。
 なんとかこの妙な事態を収束できそうだ、と万莉は一息つく。新八は、いつの間にか持ってきていたちりとりでガラスの破片を片付けていた。床に零れたワインを見て、「白ならセーフだったか」などと的外れなことをぼんやりと考える。万莉は今まで頑なに真継を「浦和くん」、稔を「蓮田くん」と呼んでいたのに、異様な事態に呑まれて、つい「真継」、「レン」と呼んでいた。そろそろ、しらを切るのもうまくいかなくなってきそうだ。
「染み付いたものは、離れない……か」
 ぽつりと呟いた言葉に新八がびくりと反応する。
「す、すまん、ちゃんと磨くから!」
「そういうことを言ったんじゃないよ、この馬鹿犬」
 新八が雑巾で懸命に床を拭いている様子を見た香兵衛は、雑巾を手に取り、手伝い始めた。新八の姿はまるで大型犬が肩をすぼめて小さくなっているようで、香兵衛はいたたまれない気持ちになる。香兵衛が「ドンマイ」と新八の肩を叩くと、新八は乾いた笑いを零したのだった。