むげんだい

main story






「帰りたくない」
「へぇ、そう」
 わざとらしいほどに大きいため息を吐いた香兵衛の発言に、千晶はたった4文字で返した。
 香兵衛は平介と別れて、もとい平介から逃げて、千晶の家に飛び込んでいた。仕事に行った千晶に電話を入れて、わざわざ早く切り上げてもらったのである。千晶の家はやたら大きくて、部屋は無駄に広かった。不必要に大きい壁掛けテレビと向かうように置いてある、本革でできた肌触りの良いソファに座って、天井を仰ぐようにして思い切りもたれかかる。
 千晶の帰りを待つ間も、平介の声が頭からずっと離れなかった。

『お前は、舞台にいる人間だった』
『俺はずっと後悔してたんだ』
『また、昔みたいに、一緒にいたいんだ』

 割れるような頭痛は治まった代わりに、今度は思考に靄が掛かったように晴れない。喉まで出かかっているのに単語が思い出せない、無意識に発した自分の言葉が思い出せない、普段会わない人の顔がしっかりと思い出せない――そういった感覚に似ていた。そしてそんな靄の隙間に、ときおり見えるものがある。
 それは、見たことのない景色だった。いや、なんとなくそれに近い景色は見たことがあった。テレビか何かで見た気がするのだが、まさしくそれだというものは、やはり見たことがない。だがそれは、鮮明に思い浮かばれた。特に、どこか高い舞台の上から観衆を見下ろす光景と、畳の部屋で自分と仲間たちが楽しそうに笑っている光景。それから。

『香兵衛! お願いだ、――』

 殊更よく響く、懇願の言葉。聴こえない時も聴こえているような錯覚を起こすほどに――そもそも実際に聴こえているわけではないが――、その言葉が脳を占有する。しかし、その先がどうしても聴こえない。考えようとすると、逃げるように映像が薄らいでいく。気になって仕方がなくて、もどかしい。
「なんなんだよもう……あーも、家帰りたくなぁーい」
 ぐったりとソファに沈み込む。隣に座る千晶に、甘やかしてくれと目で訴えてその膝を枕に寝転ぶ。千晶は少し目を細めて、香兵衛の鼻筋を人差し指の背でくすぐった。
「香兵衛が大喜びで始めたことじゃない」
 千晶は昔から、香兵衛が「自分の自分による自分のための素晴らしいバンドをプロデュースする」と意気込んでいたのを知っている。だから、そうそう諦めるわけがないこともよく知っていた。
「そうなんだけどー」
 千晶の膝の上で、ごろごろと頭を転がす。
「なんだけど?」
「戸塚と一緒にいたくないんだよね」
 出てきた名前にふと思案する千晶。何かに思い当たったようで、ああ、と間延びした声で呟いた。
「さっき大学で会った人? なんで。選んだメンバーなんでしょ?」
 先ほど会った様子では、香兵衛をこれほど困らせるような人物には見えなかった。そもそも、香兵衛が選んだメンバーのうちのひとりだとわかっていたから、特に難癖をつけるつもりもなかった。千晶が見る限り、香兵衛が好みそうな人間だ、とすら思ったほどだ。
「……なんとなく!」
 香兵衛は、恋人である千晶に対して、そいつの顔がちらついて頭から離れない、とはさすがに言えなかった。
「ともかく帰りたくないの! あ、でもバンドが……」
「じゃあ帰ったら?」
「でも戸塚が……」
「じゃあ泊まっていったら?」
「でもバンドが……」
「……まあ、好きなだけ悩みなよ」
 うだうだと続ける香兵衛に苦笑すると、千晶は携帯を手にとった。慣れた手付きで電話を鳴らすと、一言二言話してすぐに電話を切る。香兵衛に「コーヒーとお菓子持ってきてもらうように頼んでおいたから」とだけ告げ、テレビのリモコンに手を伸ばした。暗に泊まっていけと告げているようなものだった。



「え、香兵衛先輩……じゃなかった、香兵衛、帰ってこないの?」
 真継の言葉にピクリと反応を返したのは、平介と万莉だった。
「みたいっすよ。なんかこんな連絡が来たんで」
 稔が携帯を摘んで、画面をみんなに見せる。そこには、『今夜は帰らないから☆』というあっさりとした文章が表示されているだけだった。
 時刻は十八時半。夕飯にするには少し早いが、小腹が空く時間だった。新八、万莉、真継、稔の4人は、真継が用意したお茶とお菓子でのんびりと平介と香兵衛を待っていたのだが、一緒に帰ってくるはずだった2人のうち平介しか帰って来ず、その平介はというと、傍から見ても明らかに落ち込んでいる様子だった。いつ香兵衛が帰ってくるのかと思えば、この連絡だ。どう考えても、何かあったに違いなかった。リビングが、妙な空気に包まれる。
「……なんだ平介、もしかして喧嘩したのか?」
 新八の言葉に平介は体を強ばらせ、視線を落とした。両手で包むようにして持っていたカップのコーヒーに、自分の顔が映る。輪郭がゆらゆらと揺れて、表情までは映らなかったが、自分が情けない顔をしているのは見るまでもなくわかっていた。
「……まー、喧嘩するってことは意見を言い合えるってわけだし、悪いことじゃないさ。な?」
 平介の反応を肯定と判断した新八が、平介の肩に手を置く。岩のように頑固で理屈っぽい平介が、人と意見を対立させて気まずくなることは往々にしてあり、その度に新八や稔が声を掛けていた。とはいえ平介は、意見の対立程度で落ち込むような人間ではなかった。
「いや、俺が悪い」
 平介の思いつめた表情に、4人は静まり返る。同居をし始めて早2週間。これまで和気あいあいと暮らしてきたから、初めての異変に皆戸惑っていた。ムードメーカーだった香兵衛がいないだけで、ただの喧嘩もまるで大事に感じられてしまう。
「……君、大丈夫?」
 見兼ねた万莉が、ため息混じりに声を掛ける。平介は少し驚いたように目を見開いたが、万莉の思いやりを感じて、「すまない」と返した。平介は件のことで万莉には避けられていると思っていたから、労りの言葉に少しだけ溝が埋まった気がした。
「戸塚先輩、鶴見先輩に一体何言ったんですか」
 何かを察した稔が、平介に問う。稔はその答えをこの場で平介が答えられるとは思っていなかったようで、返答を期待しているわけではなかった。
「……すまない、少し、席を外す」
 カップをテーブルに置くと、平介はリビングを出ていった。トントンと階段を登る規則的な足音が聴こえる。
「平介くん、大丈夫かなぁ。……大丈夫じゃ、ないよね」
 真継は心配そうに廊下へ続くドアを見つめる。その日の夕飯は、今までで一番静かな夕飯だった。