むげんだい

main story






 会社に向かうと言った千晶とは駅で別れた。平介と2人で電車に乗り込むと、心地よい冷房の風を感じる。4月末だというのに今日は日差しが強くて、じんわりと汗ばむ気候だった。
 香兵衛は自分の服の裾を掴み、バタバタと振って風を起こす。行儀が悪いと平介にたしなめられたのがつまらなくて口を尖らせるが、平介を睨んでやろうとしたところで止まった。ワイシャツの袖を肘までたくし上げている平介の首筋に、薄らと汗が滲んでいる。それは単なる暑さに対する人間の生理的現象であったのに、何か惹かれるものがあって思わず見入った。「服で仰いでも千晶は怒らない」だとか、「電車の揺れに耐えるには片足だけ内股にするといい」だとか、「涼しそうな顔してる戸塚でも汗かくんだね」だとか――浮かぶ言葉はどれもロクなものではなくて、開きかけた口をすぐに閉じた。
 調子が狂う。
 平介が何をしたわけでもないのに、なぜか心がざわつく。それは甘酸っぱいものなどではなく、落ち着かなくて不安になるようなもので、つまり気分の良いものではなかった。そして、その不安になる感覚は何かに似ていると思った。が、その何かがわからないから、結局そわそわするしかなかった。香兵衛はちらりと平介の表情を伺ってみたが、相変わらずの無表情だった。何を考えて、何を思っているのか、香兵衛にはまったくわからない。千晶と言い平介と言い、僕の周りの人は無表情な奴ばっかりだ、と小さくため息をつく。
 しかし、一緒に帰る約束をわざわざ取り付けてきたのは、平介からの歩み寄りである。香兵衛は先日稔に指摘されたこともあり、メンバーともう少し打ち解ける努力が必要だと思っていた。だから平介の歩み寄りに感謝しなくてはならない。だから、だから、会話を続けなければ。
「いやぁ、暑いよねぇ」
 結局口から出たのは、テンプレートな台詞だった。



 家の最寄り駅につく頃には、香兵衛は思いつく限りの日常会話を全て話しきってしまった。もう少し気の利いた言葉はないのかと自身を呪ったが、それ以上に平介の反応が薄いことも憤慨していた。もう何をどうすれば会話が弾むのかわからず、改札を出たタイミングで、ついには体調不良を疑ってみる。
「……体調とか大丈夫?」
「ああ、問題ない」
 僕と話したいから誘ってくれたんじゃないの、と、平介の淡白な返答に文句を言ってやりたくなったが、ぐっとこらえた。そんなに顔を強張らせて、一体なんだというのだろう。
「……あれ、もしかして」
 そこで、香兵衛はひとつの可能性に気づく。自分同様、彼もメンバーと打ち解けていないのでは、と。
 自分が打ち解けなければ、とばかり考えていたせいで、自分以外のメンバーも打ち解けられていないかもしれない、という至極当然なことを失念していた。ならばバンドを立ち上げたマネージャーとして、やることはひとつである。
「ごめん戸塚、そうだよね、そりゃそうだ。あんた一番不器用そうだもん!」
「……なんの話だ?」
 急にスイッチが切り替わったように話し出した香兵衛に、平介が怪訝そうな顔をする。香兵衛は、自分がメンバーの友人であるとともに、彼らのマネージャーであり、支える側の人間であるということを思い出したのである。
「これからバンドをやっていく上でね、メンバー同士の関係って大事だと思うんだ」
「まぁ、そうだな」
「けどね、メンバー全体を面倒見ていくマネージャーとしての僕との関係っていうのも、ちゃんと作っておかないといけないよね!」
「……すまん、何が言いたいのかわからないが。そもそも、その2つは別物なのか?」
 先程までとは打って変わって、香兵衛はハツラツと話しだした。困惑して眉根を寄せた平介の疑問をよそに、励ましのような言葉を紡ぐ。
「確かに毎日忙しくなっちゃったと思うけど、その分充実した日々を送れるじゃん?」
「……」
「いやさ、そういう中で育まれる友情っていいと思うんだよね! 安心する存在っていうかさ!」
 別に励ましの言葉が欲しかったわけではない平介は、見当違いなことを言う香兵衛をただ見ているしかなかった。なおも香兵衛は続ける。
「そんなわけだから僕は頼ってもらいたいわけよ、戸塚に!」
 なにがどういうわけでそうなのか、まったくもって理論的でない。香兵衛はただ情熱のままに気持ちを言葉にするから、論理性など説いたところで無意味だ。だから、発する言葉に、単語に、意味はない。あるのは想いだけ。
「実を言うとね、僕戸塚には親近感湧いててさ、」
 それは打ち解けられずにいる現状が一緒だから?
「実際見ててなんとなく安心するし、」
 それはどこか千晶と似ているから?
「懐かしいなぁとすら思うわけ!」
 それは、それは?
「だから頼ってもらいたいんだ、マネージャーとし……って、戸塚?」
「そ……れは、どういう」
 平介の様子が急変した。それまで香兵衛の言葉を不思議そうに聞いていた平介が、弾かれたように顔を上げて、愕然としている。石像のように固まって、瞬きをすることも、口を閉じることも、息をすることさえも忘れてしまったようだった。
「ど、どうって……」
「また、一緒に、いていい、のか」
 途切れ途切れに言葉を口にする平介の声は、怯えたように震えていた。香兵衛は、平介が今にも泣き出しそうだと気づき、自然となだめるような声色になる。
「そりゃ、またっていうかなんていうか、もう一緒に住んではいるよね、うん」
「違う」
「へ?」
「また、昔みたいに、一緒にいたいんだ」
「昔って……いつよ」
 急に饒舌になったかと思えば、意味のわからない話をする。ついひと月前に出会った彼らに、昔もなにもないはずだ。平介の声が震えているのが、居心地が悪くてしょうがなかった。香兵衛まで、不安になるのだ。
「ずっと、ずっと昔だ! お前と俺は、マネージャーとメンバーだとか、そんなものじゃなかっただろう」
「え、ちょ、どういうこと」
「こい、びと、だっただろう……っ」
「こいっ……へぇっ!?」
 香兵衛は通行人たちの視線が気になっていたが、平介のトンデモ発言に周りどころではなくなっていく。
「……お前は、舞台にいる人間だった」
「……舞台?」
「それなのに……あんなことになって、俺はずっと後悔してたんだ。……謝りたくて、ずっと」
 昼メロか何かかと、いっそのこと笑ってやりたかった。けれど、香兵衛の脳には、“聞いたことはないが聞いたことのある”声が確かに響いた。

『香兵衛! お願いだ、――』

 一瞬目の前が真っ白に光ったような気がして、顔をしかめて目をつむる。その次に見えてきたのは、古びた小屋の隅に滲むシミと、よれよれの白い着物と、目の前にある木の柵だった。
「……なん、の、こと……」
 ぞわり、と全身に鳥肌が立つ。
 見晴らしの良い町並み、衆人たちの賑やかな笑い声、景気のいい売り子の呼び込み。若人の流暢な口上、絢爛豪華な着物、集まる視線、歓声、喝采。

 ――これは一体?

「……香兵衛、……香兵衛!」
 平介の呼び声にハッとして顔を上げる。知らずに香兵衛は真っ青な顔で口元を抑えて、しゃがみ込んでいた。
「……え……な、に……?」
 頭が割れるように痛い。何かがじわじわと心臓を染めあげていくような気がして、ぎゅっと胸元を掴む。
「香兵衛、大丈夫か」
 平介は香兵衛に目線を合わせるようにしゃがむと、心配そうに肩に手を添えた。香兵衛は、もうそこには先程の映像はないのに、その映像が鮮明になるような気がして、思わず手を払いのける。
「……ごめ、……先、帰っててっ」
 ようやくその言葉だけ捻り出すと立ち上がり、足元もおぼつかないままに今出た改札を走り抜けていった。ついてくるなと言わんばかりの背中を見た平介に、すぐに立ち上がる勇気はなかった。