むげんだい

main story

4話 迷いの声






 知っている。この夢の景色は幼かった頃に一度見たことがある……ような気がする。その時はわけもわからず、飛び起きてわあわあ泣いて、親に寝かしつけてもらった。と、たった今思い出した。
 忘れていたことを責めるかのような、すべてが同じ夢。

 蝶が舞うように、火の粉がキラキラ舞い上がる。
 火の海の中を当たり前のように歩く。熱くは、なかった。
 抜けた先は奈落の底で、ふと火を失った世界が闇に包まれる。
 言い様のない不安が胸を蝕む。

 不意に現れた人影。

 吸い込まれるように、奈落の底の、さらに底へ沈み落ちていく。

 手を伸ばしても、届かない。

 堪えられなくて、無音の世界で声をあげた。

『――――万莉!』



 平介が目覚めたのは、彼と同様に几帳面な体内時計によって――ではなく、彼と同室である新八によってであった。揺すり起こされたのだ。カーテンに遮られた細い朝日が零れる薄ら明るい部屋で、眉根を寄せて今にも泣き出しそうな表情の新八が目に入った。
「万莉が……」
 うわ言のようにそう呟いた彼に、どきりとする。
「落ち着け、万莉がどうした」
 言いながら平介が掛け布団を畳もうとすると何かが引っかかったが、それは新八の手が掛け布団を握り締めていたからだった。「おい」と、新八の手を布団からどかそうと平介がその手首を掴むと、ようやく新八が我に返ったのかぱちくりと目を瞬かせた。
「あれ、俺、万莉が……あ、夢? うん、ああ、夢か」
 万莉と一悶着あったのかと思ったが、どうやら違うらしい。考えてみれば、朝に弱い万莉がこんな時間帯に起きているはずもないだろう。
「夢が、どうした」
「……わりぃ平介、なんか、忘れちまった。いや、ほんとスマン!」
 万莉が出てきたような気がするんだけどなあ、何の夢か忘れちまった。そう言いながら、早くに起こしてしまったことに対して手を合わせて謝ってみせる新八。忘れたとはいえ、あの新八が眠っている人間をわざわざ起こしてしまうほどに動揺したのだから、余程の内容だったのだろう。
「しっかりしろよ、新八」
 平介には新八の見た夢のおおよその内容に見当がついた。そして前々から、新八がそういう夢を見ることも望んでいた。しかしいざ彼の狼狽を目の前にしてみると、背筋の凍るような思いをした。いつも明るい彼が青ざめた顔で万莉の名を呼ぶ姿は、出来れば見たくないものだったと、思い出した。

 ――間違った願いだったのかもしれない

 ふと自分の頭の中によぎった迷いを振り払うように、平介は頭を振ってもう一度呟く。
「しっかり、しろよ……」



「あれ、今日の朝ご飯なんか豪華?」
 支度を終えた香兵衛がリビングを覗くと、食卓には焼き鮭、味噌汁、筑前煮、白ご飯がきっちりと並べられていた。食事としては一般的なのだが、朝の忙しい彼らが普段用意できるのは、パンと目玉焼き、もしくは雑炊と漬物、その程度だ。
「おう、おはよう香兵衛! 今朝は平介が張り切ってなぁ」
 自分の席に座った香兵衛に、急須を持った新八が声を掛けた。香兵衛の目の前にある空の湯呑みに緑茶を注ぎ、新八も席につく。
「お、ありがと瀬田。で、なんでまた?」
「こいつに早くに叩き起こされて、寝るに寝られなかったからだ」
 香兵衛の問いにキッチンの奥から答えながら、平介がしかめっ面を覗かせた。
「悪かったって……」
 申し訳なさそうに苦笑いをする新八に、香兵衛は首を傾げる。しかし、新八も平介も理由を話し始めるようでもないので、軽く手を合わせて「いただきます」とだけ言うと、味噌汁をすすった。つられるように2人も手を合わせると、朝食に手を付け始めた。


「ごちそうさまっ」
 香兵衛がお茶を飲み干して湯呑みを置く頃、今度は稔が階下へ降りてきた。それを見た香兵衛が壁に掛けてある時計へと目を向ける。2限目に講義がある稔が起きてくる時間帯は、1限目に講義がある香兵衛が家を出るのに、ちょうど良いくらいの時間だ。稔に軽く挨拶だけすると、席を立つ。
「じゃあ戸塚、また帰りにね」
 ソファに放り投げてあった上着を掴むと、香兵衛はくたくたになったショルダーバッグを肩に掛ける。2階まで聞こえるほどの声でいってきますと叫ぶと、玄関を飛び出していった。
「香兵衛は朝から元気だなー」
 勢いよく閉められたリビングのドアの方を見ながら、まるで嵐のようだと新八が笑う。
「や、先輩ほどじゃないっすよ」
 稔が指を差した先には、空になった新八の大ぶりな茶碗。3杯目のご飯を平らげたところだった。そのやり取りを、お茶をすすりながら見ていた平介がふと疑問を投げ掛ける。
「おい新八、お前も1限からじゃなかったか?」
「え、あ」
 平介の言葉に、新八は大きな音を立てて立ち上がった。1限ならば、香兵衛と同じ時間には家を出なければならないはずだ。
「い、いいいってき、うわっ、い、いってきます!」
 椅子の脚に引っ掛かってもたつきながらも、足元のリュックをひっ掴むと大慌てで出ていった。閉まることのなかったドアが、虚しくゆらゆらと揺れる。
「元気っすね」
「ふっ、そうだな」
 話しながら新八がずらしていった椅子を、慣れた手付きで平介が元の位置に戻した。新八は慌ただしくその場を去ることがよくあったから、そういう後片付けのようなものは、2人にとって慣れたものだった。

 2度の嵐の後の沈黙を破ったのは、稔だった。
「うまくやってるみたいじゃないですか」
 何が、とは言わなかった。
「一緒に帰るだけだ。それに……思い出したわけじゃない」
 香兵衛と講義の終わる時間が同じだから、一緒に帰る約束をした。ただ、それだけ。記憶の話がしたい、思い出せるのならば思い出して欲しい。そしてできるならば、以前と同じように――。そう思ってはいても、簡単にどうこうできるものではないということは、平介も稔も重々承知していた。だから、少しでも確実に距離を縮められるように、行動を取っていく。けれどもそれは、結局一から関係を築くことと何ら変わりはなかった。心の支えだった人間が、赤の他人のように振舞う。叩きつけられる現実は残酷だと、2人は思った。
 それでも、平介は今までほど悲観的ではない。以前まで香兵衛は、二度と会うことのできない過去の人間だったのだ。今は、目の前にいる。触れられる距離にいる。近づくことも、できる。ならば少しでも記憶を思い起こす可能性に賭けたい。
 ――できるだけ長い間、側にいたい。
 対して稔は、悲観的ではなかったが、かといって平介ほどに前向きでもなかった。持っていた箸を静かに置くと、背もたれにゆっくりともたれかかり、腕を組んだ。一度視線を落としてから、目線だけを向かいに座る平介に移す。
「思い出すと、思ってるんですか」
「思い出させようと、思っている」
「……協力はしますよ。ま、具体的にどうすれば良いかとかはわかりませんけど」
 平介の返答を聞いて、稔は困ったように笑ってみせた。根拠もあても何もない理想を、理屈っぽい平介がひたむきに追い求めている。稔はそれが滑稽に思えたが、とても羨ましくも思えた。曖昧な気持ちのままの自分とは違う。平介はもう、心を決めているようだ。
「お前はどうなんだ。真継と」
 平介は、視線をわざとらしく逸らした稔に見兼ねて問い掛ける。稔とて、記憶はともかくとして、真継と気兼ねなく話せるようになりたいとは思っているはずだ。
「浦和センパイね」
「余所余所しいじゃないか」
「呼べませんよ。俺はまた、ただのかわいー後輩になっちゃったんで。『また』ね」
 「真継」と名前で呼ぶなど、昔に戻った気分になってしまう。けれども、「浦和先輩」と余所余所しく呼んでみたところで、過去の出会った当初、まだ自分が「恋人」ではなく「可愛い後輩」だった頃のことを思い出してしまう。どう呼ぼうとも、どう接しようとも、あの記憶たちが引っかかって、面と向かって話す気になれなかった。向こうに悪意はない。自分が過去のことなど何もなかったように接することができないだけだ。かといって、過去のことを押し付けるようなこともしたくない。
 現状では、稔は真継とは器用に接していて、何かを悟られるふうでもなく、「ただの可愛い後輩」を演じている。もともと感情や考えを表にわかりやすく出す方ではない。しかし、だからこそいつかボロが出たときに、自分が抑えられる気がしなかった。

 ふと、後ろからパタパタという足音が響いた。2人がドアの方へと目をやると、真継が欠伸をしながらリビングへと入ってきた。香兵衛の大声で目を覚ましたのだろう。
「あ、おはよう! 平介くん、蓮田くん」
 平介は胸が締め付けられるような思いで稔の様子を伺うと、稔はいつも通りの表情で「おはようございます」と気だるげに挨拶をしていた。口を挟もうとしたが、喉まで出かかった言葉をそのまま飲み込んでしまった。「辛くないのか」など、聞かずともわかることだ。
 記憶のない人間を責めることができなければ、記憶のある人間の行動を責めることもできなかった。