むげんだい

main story






 平介と新八が最寄り駅の改札を出た頃には、辺りはすっかり暗くなっていた。時刻は8時を少し回っている。
「なあなあ平介、今日の月、ぴったり半分じゃね? すっげー綺麗だなー」
 新八が口をぽっかりと開けたまま空を見上げている。新八に倣って平介も空を仰ぐと、輪郭のくっきりとした上弦の月が白白と輝いていた。雲ひとつない、まっさらな空だ。
「……いや、明日の昼がちょうど半月になる頃だろう」
 平介は空から自分の腕へと視線を落として上着の袖を少し捲り、日付表示付きの腕時計を確認して言った。日付で見れば、明日がちょうど上弦の月である。
「そうなのか! 本当、月って綺麗だよな、凛とした感じがすごく好き」
 新八が恥ずかしげもなく、やれ空が綺麗だ、やれ月が綺麗だと嬉しそうに語ることを、新八の友人たちは「ポエマーかよ」と笑っていたが、平介はそれが新八の良いところであり、なかなか真似のできるものではないと思っている。
「お前は本当に月が好きだな」
「ん? そうだな!」
 満月も好き、半月も好き、三日月も、新月も好き。新八は夜道を歩くたびに月を見上げては嬉しそうにしている。けれど平介は、新八に似合うのは月よりも夏のカンカン照りの太陽だと思っていた。そうとするならば、太陽と月が惹かれあうようで、何かの神話かおとぎ話のようだ、と思案する。天照と月読が、いや、ヘリオスとセレネか、などとブツブツ呟いている平介を、新八が不思議そうに伺う。平介も、新八と肩を並べられるほどにはロマンチストと言えるだろう。
 平介はそんなことを考えつつも、月を見上げる新八の姿を気に入っているわけではなかった。昔のある時期を思い出して、不安になるからだ。
 ずっと天を仰いでいるわけにもいかない。
 2人はどちらからともなく歩き始め、4人が待つであろう家への帰路につく。



 街灯が多く整えられた歩道に、2人分の足音がちぐはぐに響く。都内ではあるけれども、住宅街まで出れば夜道は静かなものだった。駅から歩みを進めて束の間、1分の沈黙ももたず新八が話を始める。
「あ、俺さ、実はレッスン終わった後、平介の教室ちょっと覗いたんだけど」
「知ってる。ドアのガラスから見えた」
「わりぃわりぃ、いやそれでさ。お前ベース弾く姿、結構さまになってるよな!」
 ボイストレーニングを受けている真継以外の4人、つまり楽器を担当するメンバーは、全員同じ音楽教室に通っている。その4人は各々個人レッスンを受けさせられ、平介と新八はそれに加えグループレッスンも受けさせられている。個人レッスンが週に2回、グループレッスンが週に1回。今日は個人レッスンとグループレッスンが立て続けにある日曜日だった。帰宅時間が同じため、少し早めに終わった新八は、平介が教室から出てくるのを待っていたときに様子を伺ったのである。
「……そうか」
 新八に褒められて、平介は満更でもなさそうにうっすらと口元を緩める。平介はもともと表情が堅く喜怒哀楽もわかりづらいのだが、よく見れば小さな変化が見られる。新八は長年の付き合いをもってそれを理解しているが、それでもなお、もっと表情筋を使えばいいのにと思っていた。笑いたければもっと笑えばいいのに。嬉しい時には表情どころか全身を使って喜びを表現する新八と平介とでは、正反対だった。
 新八は、鞄から取り出した数枚の楽譜を見つめながら肩を落とす。
「でも、レッスンばっかはきついよな。俺、楽譜が未だに暗号に見えるんだ……」
 月明かりをたよりに目を凝らした。音符の羅列を拾うように指で追い、少し進んだかと思うと唸りながら頭を掻く。ドラムの楽譜はピアノなどの楽譜とは少々異なり、慣れないと読み辛い。もとより新八は普通の楽譜もろくに読めないから、余計に暗号のように見えるだろう。義務教育における音楽の授業も、隣の席の女の子に、音符の上へドレミをふってもらっていた口だ。
「それは練習の忙しさ以前の問題だろう……大丈夫なのか?」
 平介は新八が握る楽譜を見、次いで新八を見ると、呆れたように眉をひそめた。平介も確かに音楽はまったくの初心者であったが、既に楽譜を読むことに慣れつつあった。生真面目で努力家な彼は、何事も真剣に取り組む。決してバンド活動そのものに意欲的なわけではないのだが、その性格が手伝って、結果として妙に積極的になっていた。そんな馬鹿がつくほど真面目な平介の非難めいた問いかけに、新八は苦笑して答える。
「全然大丈夫じゃない、香兵衛にバイト禁止令出されちまったもん」
 新八は乾いた笑いを零すと、いよいよ肩を落とした。新八は香兵衛に声を掛けられる前まではコンビニのアルバイトをして小遣いを稼いでいた。しかし、バンドの練習に専念するようにと香兵衛から指示を受け、やむなくアルバイトを辞めたのである。
「あいつのやる気は半端じゃないからな」
「はは、そーだな。でも香兵衛の熱心さ見てると、俺もやる気出てくるよ」
 平介は新八の言葉を聞くと、香兵衛が今後のバンド活動について熱心に提案してくる様子が脳裏に浮かんだ。活き活きとしていて、楽しそうだった。本当にやりたいことをやっているからだろう。それを見ている分には気持ちが良かったが、その騒ぎが自分にまで及んでいるから単純に喜べるわけではなかった。自分にも読書や勉強など、やりたいことは多々ある。楽器ばかり触っているわけにもいかない。そんな気持ちから、皮肉めいた言葉が出る。
「やる気を出さざるを得ない、の間違いじゃないのか」
 そう言っておきながらも、平介とて香兵衛の楽しそうな様子が嬉しいからやる気が出ているようなものだった。
「半分はなー。でも俺ホントやる気出てるんだ、皆でライブとか楽しみじゃん!」
「まず楽器を弾きこなさないと話にならないがな」
「う……まあ、でもな、ドラム面白いんだ、叩くといろんな音が出るし」
 新八は言葉に詰まりながらも、ドラムを叩くように手を動かして見せる。ここがハイハットで閉じるとツンって鳴って、こうするとシャーンって鳴る、と曖昧な表現で楽しそうに喋る。ドラムを叩けば音が出るのは当たり前じゃないか、と、新八のはしゃぎようがおかしくて、平介はつい噴きだしてしまう。
「お前は楽しそうでいいな」
 そう言いながら肩を揺らして笑う平介に、新八は目を丸くした。
「そりゃ……でも、平介の方が最近機嫌良いだろ?」
 瞬間、平介はなぜだかドキリとした。まるで隠さなければいけない秘密がばれてしまったような気持ちだった。
「そうでもない、……こともない、か」
 平介は慌ててそれを隠すように否定の言葉を口にしてみたが、さらに否定を重ねてその言葉を掻き消した。別に隠すことではない。今の生活を楽しんでいることは、決して悪いことでも後ろめたいものでもないのだ。自分の心情を言い当てられることも、別段気にならない。誤魔化す必要もない。ないのだが、何故か冷や汗のような、血の気が引くような、それでいて熱くなるような、心身の変化を感じていた。

「あ、そういえば妹たちが俺たちのファンになってくれるって言ってたぞ!」
 内心の焦りをどう処理しようかと足元を見つめていたら、新八が話題をころりと変えて喋りだした。新八はいつも、とりとめも順序もまったくなしに話す。常ならば、さっきの話はどうなったのだと咎めるところだったが、この時ばかりはありがたくその話題に乗ることにした。
「……からかわれたんだろう、それは」
「そうなんだよ、『お兄ちゃんがバンド!? ありえない!』とか言われちゃってさー」
「だろうな」
 新八には妹が2人いる。新八は可愛がっているのだが、年頃の妹たちは気恥ずかしいのか本当に面倒臭いのか、兄を少し煙たがっているようだ。だが平介は、2人の妹たちが本当は兄によく懐いていることを知っている。新八曰く「仕方ないからファンになってあげるよ」と言われたらしいが、それなりに興味は持っていることだろう。ただそれを言えば新八が有頂天になるだろうから、黙っていることにした。ちなみに、後日バンドメンバーを見た2人の妹が、綺麗どころの万莉と稔にぞっこんになり、新八が寂しい思いをするのはまた別の話である。
「でもな、俺が家を出たから2人ともひとり部屋になったんだよ。だから喜んでたなー」
「そうか。前から欲しいと言っていたな」
「ちょっと複雑だけどな。あ、そういえば稔のお姉さんはどう思ってんだろうな」
「双葉さんか? どうだろうな、あの人のことだから……」
「騒ぎ立ててそうだなー!」
「そのうち家に乗り込んでくるかもしれない」
「ありえる!」
「香兵衛とは喧嘩腰になりそうだが、真継と万莉のことは気に入りそうだな」
「稔がげっそりしちまうぞ」
「だろうな」

 ほんの十分程度の帰り道だが、2人は会話に花を咲かせた。レッスンに疲れはしたものの、気分は上々だ。
 いつもよりゆっくりと歩いてたどり着いた家のドアを開けると、「おっせーよ!」という暴言と共に、香兵衛が少し焦げたカレーで出迎えてくれた。すまん、と2人で謝って玄関を上がる。閉まるドアの向こうに見える月は、綺麗に輝いたままだった。