むげんだい

main story






 香兵衛がカレーの火を止めた頃に、万莉と真継が帰宅した。
 玄関を上がればカレーの芳しい匂いが鼻孔をくすぐる。長い一日を終え腹を空かせて帰ってきた2人は、すぐにでも食べてしまいたいと思ったが、夕飯は6人が全員揃ってから、と香兵衛が決めている。平介と新八がレッスンを終えて帰ってくるまで夕飯にはありつけない。2人はキッチンにいた香兵衛に「ただいま」と声を掛け、そのまま自室のある2階へと上がった。
 荷物を部屋に置き、手洗いを済ませて部屋に戻る途中、隣の部屋のドアから顔だけ覗かせた稔が「おかえり」と声を投げ掛けてきた。
「ただいま、蓮田くん」
 真継が微笑んで愛想よく返したのに対し、万莉は「あぁ」とだけ答えた。稔は今日のレッスンのおさらいでもしていたのだろうか、ギターを掴んでいる。熱心なことで、と心の中で万莉は思ったが、口にはしなかった。挨拶だけすると稔は部屋に引っ込んだが、万莉はその閉じられたドアを少しだけ見つめてから、部屋に戻った。


「折角だからこの空いた時間に済ませようか」
 平介と新八は予定どおりなら三十分もすれば帰ってくる。夕飯までの時間、何かをするには中途半端な時間だった。万莉の提案に真継は頷いて、「お願いします」と床に座り込む。真継が体育座りの状態から上半身だけを寝かすと、曲げた足を万莉が固定するように抱き込んだ。腹筋を鍛えるらしい。
 真継はバンドにおけるボーカルを担うことになっている。歌を歌うには一にも二にも腹筋だ、と香兵衛にもボイストレーニングの講師にも再三言われている。しかし、中学・高校と委員会や生徒会に所属し、運動といえば体育の授業くらいでしかする機会のなかった真継が、立派な腹筋を持っているはずがなかった。そのため、真継は毎日腹筋三十回を義務付けられている。講師が言うには、本来ならばそれを1日3セットやってもらいたいらしいのだが、起伏のない腹をした真継にいきなり出来るはずもなく、とりあえずは1セットから、ということになったらしい。
「それにしても浦和くん、キミ本当筋肉ないよね……」
 ひぃひぃと苦しそうな顔をしながらようやく5回目を数える真継を見て、呆れたように万莉は呟く。万莉も男の身体としては随分と細身であるが、全体的に筋肉はうっすらとついているし、腹筋も少しは割れている。それに比べて真継は、筋肉がまったくと言っていいほどない。贅肉は言わずもがな。万莉は以前真継の腹を見たことがあるが、細くて平べったくてつるつるで、決して青年の腹ではなかった。万莉とはまた違った意味で、女性と勘違いされてもしょうがないような、いわゆる貧相な体つきだった。
「う……で、でも、続けてたら、筋肉つくよね!」
「まぁ、少しはつくんじゃない? ほんの少しは」
 隆起のない痩せた身体を本人は非常に気にしているようだ。しかし万莉から見て真継は、甘味も含め食事は人並み以上に食べているし、それなりに動きもしている。もともと肉の付きにくい体質なのだろうと万莉は思っていたから、曖昧に返しておいた。きっと筋肉がついたとしてもほんの少しで、細い身体はそのままだろう。
「ほんの少しか……」
 真継が肩を落としてため息をついた時、ベッドの上に置かれている鞄から携帯電話の震える音が聞こえた。それは真継のもので、万莉が取って来ようかと訊ねたが、あとで大丈夫だと真継は答え、腹筋を続けた。


「ねえねえ、万莉って前からピアノやってたんだよね! 随分長いの?」
 トレーニングを続けながらも、真継は話題を持ち出す。喋りながらやれば余計に疲れるだろうに、真継は万莉と話していたいようだった。
「まあそれなりにね。母の店でバイトしてたから、特技としては重宝してたよ」
「ええ、すごい! お店で弾けるほどの実力なんだ!」
 万莉はなんでもないことのように言ってみせたが、真継は目を輝かせて驚く。真継の素直な反応が、万莉にとっては心地良かった。次元の違う人間を見るように「さすが」「出来る人は違う」などとねちねち褒め讃えられるよりも、純粋な気持ちで褒め言葉を受け取ることができる。
 ――真継は“前も”素直でいい子だったね
 そんなことをぼんやりと思いながら万莉がくすくすと笑っていると、訝しげに真継が顔を覗いてくる。誤魔化すように、話を進めた。
「でも、バンドを組むことになるとは予想外だったかなぁ」
「それは俺もだなぁ。未だによくわかんないっていうか」
「私もわからないよ。まあ、香兵衛って言い出したら聞かないみたいだし」
 仕方ないんじゃないかな、君もそろそろ諦めなよ。そう万莉は笑ってみせた。その笑顔がとても優しくて、真継の心に強く印象が残る。そうして話しながらスローペースで腹筋を続けていると、再び真継の携帯が震えた。
「取らなくて平気?」
「うん、大丈夫」
 取りに行こうかと再び訊ねる万莉に対して真継は小さく首を振った。万莉は、遠慮しがちの真継のことだから、人にわざわざ携帯を持ってこさせるという行為を申し訳なく思ったのだろうかと様子を伺ったが、それに気づいた真継は苦笑いを浮かべてこう答えた。
「ああ、多分どっちも光。えっと、家が近所で幼馴染みなんだけど」
 万莉は、私が光の名前を聞くのは初めてである、と、自分に言い聞かせた。春日部かすかべひかり――知らない名前ではなかった。けれども、真継が彼の名を口にするのは確かに初めてだった。
「ヒカリくん。へぇ。仲良いの?」
「うん、友達の中で、一番仲が良い……かな。大学も俺らと一緒だよ」
 話を聞けば、学部が違うために授業はまったく被らないが、その代わり、なんとか時間を見繕っては昼休みなどに会うこともあるらしい。
「光、最近忙しいみたいなんだ。だから会えない代わりメールが頻繁に来てて」
「返さなくて良いの?」
「返すよ。でも、返さなくても今みたいに次のメール来たりするし」
 だから慌てて返す必要はないし、こっちが忙しくしているのだろうと解釈してくれる。そう続けて話す真継は、どうやら既に疲れてしまったようで、会話をすることで休憩しているようだった。身体を起こしきって、後ろ手に手を付いている。
「万莉は、頻繁に会う人とかいる?」
「……まぁ、中学の時から会ってる人ならいるかな。たまにだけどね」
 自分のことを訊かれると思っていなかった万莉は、少し考えるようにしてから返した。その言葉に、真継は一瞬瞳を曇らせる。
「それじゃあ、会いづらくなっちゃったよね。その人とも、お店をやってるお母さんとも」
「ま、そうだね。浦和くんは光くんとかと会えなくて寂しいの?」
 万莉はその人物や母と会う機会が減ることには、さほど寂しいと思わなかった。もちろんまったく寂しくないわけではないが、問題があるほどでもない。しかし真継の方は、何か胸につっかえるものがあるようだ。慣れた環境から離れることが辛かったのだろうかと万莉は思ったが、真継の主張は逆だった。

「俺はそれでもよかったのかなって、思ってるんだ」
 そう言って俯く真継。その様子を見て、万莉は胸を鷲掴みにされた気分になった。
 変わらない。
 君も、変わらないね。

「自分のこと、嫌な人間だと思ってる?」
「……え、顔に出てた?」

 言い淀んでいる真継の心を見透かしたかのように、万莉は真継の考えていたことを的確に言い当てた。確かに真継は、自分はなんて嫌な人間なんだ、と自分を責めていた。自分を大切にしてくれている家族や友人。そんな彼らと会う機会が減ってしまうことを、むしろ喜ぶかのような発言をするなど、どうかしていると思った。真継は実際喜んでいるわけではないのだが、常から彼らによる閉塞感で圧迫されている気がしていた。そのことを思うと、距離がとれたことは少しの開放感を感じる、そう思っただけなのである。ただそう自分が思うことすら、悪に思えるのが真継という人間だった。
 そういったことをすべて理解した上での万莉の発言であったが、真継はこれまでそういった話を万莉にはもちろん、この家の人間には一度もしていない。というか、生まれてこのかた誰にも言ったことがない。
「俺ってそんなにわかりやすい……?」
 たかが顔をしかめて俯いたのを見ただけでは、人の機微に敏感な人間であっても、悲しんでいるとか怒っているとか、わかるのはその程度だ。すべてを見透かせるわけではないが、万莉にはわかった。否、知っていた。
「ふふ、結構顔に出てるよ」
「そっかあ、顔に出てるのかあ」
 真継は自分の頬を両手でこね回して複雑そうに顔を歪める。それを見た万莉は、その真継の両手にさらに自分の手を重ねると、ぐぐ、と力を込めた。むぐぉ、と真継が眉根を寄せて潰れた声を上げると、万莉は楽しそうに笑ってみせる。
「腹筋、そろそろ再開したら? 今何回目なの」
 万莉が楽しげにからかってくる態度に驚きつつも、腹筋のことをすっかり忘れていた真継は慌てて回数を思い出そうとする。実は万莉も数は数えていたが、うろたえている真継を見ているのは楽しかったから、黙っていることにした。腹筋の回数など適当に嘘でも付けばいいのに。
 今も昔も真継がそれを出来ない真正直な人間であることは、万莉が良く知っていた。