むげんだい

main story

3話 三者の秘めたる言葉






 稔がギターケースを肩から下ろして床に置くと、ごとり、と存外大きな音が鳴った。下ろすというよりは落とすに近い置き方に、稔は自分が思っているよりも疲れていることに気付く。無理もない、彼はこの春大学に入学したばかりで、他の5人より講義の数も課題の数も多い。加えて、いきなり始まった同居生活とギターのレッスン。体力にはそれなりに自信があった稔でも、新しい環境に慣れるまでは当分この調子だろう。

 次いで鞄を机に置けば、隣の机に――正確にはその上のノートパソコンに――かじりつくようにしていた香兵衛が、イヤホンを外して顔を上げた。
「おかえりレンレン、練習どうだった?」
 ギターのレッスンのことを言っているのだろう、たった今済ませてきたところだ。どうだったかと聞かれれば、特に山もなく谷もなく平坦な内容だった、としか答えようがない。レッスンの受講自体先週に始まったばかりだ。基礎練習がほとんどで、課題曲の練習をほんの少し。
 そもそも稔は、このバンド活動を始めさせられる以前から、個人的に趣味としてやっていた。ケースの中のギターはその頃から愛用しているものであり、それなりに手に馴染む。しかしあくまで趣味の範囲であり、人に聴かせるつもりもなく独学でやってきた。だからこうしてコーチをつけてもらって習ってみると、直すべきところや新しく知ることが沢山あった。多少の苦労はあれど稔なりに楽しんでいる。それに、楽しまなければ損だと思った。香兵衛は、「嫌がってなければそれでいい」という穏やかな考え……ではなく、「嫌でも無理矢理その気にさせてやらせよう」という考えの人間だ。そのことは稔も昔からよく知っていた。
「まー、ぼちぼちってとこっすかね」
 そういった様々な思いを簡潔にまとめて表現したのが、この言葉だった。鞄の中身を整理しながら、香兵衛の顔も見ずに淡々と言ってみせた。稔は自分の感情をわかりやすく表現するタイプではない。
「そうかそうか。頑張っているようでなにより!」
 稔のそういう態度を、香兵衛はこの2週間ほどである程度理解したのか、それで十分であると嬉しそうに頷いた。

 稔同様、バンドのメンバーである他の4人も、各々レッスンを受けさせられている。一体どこから5人分の受講料が出ているのかと稔は疑問に思いもしていたが、泉岳寺の名前を以前聞いていたから大体予想はつく。稔は、レッスンを受けている自分が払わないのは道理が通らない気もするが、やれと言い出したのは香兵衛だから、わざわざ自分が貯金を崩す必要もない、と思うようにした。他の面子もこのような金銭面やその他様々なことに不安はあったが、「香兵衛だから仕方ない」の一言で済ますようになっていた。それくらい香兵衛は、言い出したら聞かないのだ。

「そういえば、先輩たちはまだ帰ってないんすね」
 稔が玄関で見た靴の数は3足だった。香兵衛の物と、自分の物、それとつっかけが1足。その日に履かない靴はいつも真継が丁寧にしまっている。ただでさえ人数の多い家だ、出したままだと玄関が靴の絨毯になってしまう。つまるところ、夜7時現在、家には帰宅したばかりの稔と香兵衛の2人しかいなかった。
「あーうん、万莉ちゃんと真継はもうすぐ帰ってくるんじゃないかな? 戸塚と瀬田は楽器初心者ってことでレッスン多めにしてあるから、もう1時間は帰ってこないよ」
「はあ、そうなんですか」
 稔や万莉と違い、平介と新八にとって音楽は新しい領域だった。きっと今頃は悪戦苦闘していることだろう。この調子でまともなバンドができるのか、稔には甚だ疑問であった。
 ふと机から顔を上げて横を見れば、自分の企てが順調で嬉しそうにしている香兵衛が目に入る。それは稔にとって、ひどく見慣れた横顔だった。昔から稔と香兵衛は、くだらないことで盛り上がっては、はしゃいだり、からかい合ったりしていた。それくらい心の許せる存在で、お互いに良き友人であったと認識していたのだ。ただそれは、2世紀も前の話であり、前世の話なのだが。
「メンバーを練習に駆り出しといて、そういうあんたは何をしてんすか」
 その横顔の懐かしさに、気を抜いてしまったのかもしれない。ノートパソコンに向かって何かを一生懸命に打ち込んでいる香兵衛の横に立って、画面を覗き込んだ。
「ん、サイト作ってんのサイト! 僕ら『infinity』のね!」
 そう言った香兵衛が、鋭い目つきで稔を捉えた。楽しそうな声色とは不釣り合いな目つきだ。

 ――ああ、そうだった。

 まるで何かに観念したかのような薄笑いを浮かべ、稔は一歩後ろに下がる。
「気が早すぎますよ」
 まだ曲を合わせた試しすらないじゃないですか――と、辛うじて聞き取れる程度の音量でそう続けた。そうだ、気が早い。稔の呟きに対して、香兵衛は自慢げに話を続ける。
「じっくり作りたいからね! 大丈夫、皆の写真は良いのがあるから、メンバー紹介のページはバッチリだよ」
「いつの間に……いやそれ、肖像権的にどうかと思うんですけど」
 香兵衛がパソコンで開いたフォルダには、まるで隠し撮りのような写真がたくさん表示されていた。まるで、というか、まさに隠し撮りだ。万莉がコーヒーを飲んでいる姿や新八の良い笑顔、平介が漬け石替わりに使えそうなほど分厚い本を読んでいる横顔。稔がチューニングをしている様子。
「……うわっキモッ、俺のもある」
「当たり前じゃーん、載せなきゃいけないんだもん。ちなみに最近の写真ならこの真継がお気に入り」
 香兵衛が慣れた手つきでアイコンをダブルクリックして表示した写真は、真継がぐっすりと眠りこけている写真だった。背景からしてリビングのソファでうたた寝していたところを激写されたのだろう。あまりにも幸せそうに眠っているものだから、写真を見ているだけでも和んでしまう。
「ふは、確かにこれは可愛い」
「でしょ?! 超可愛い! たっまんないよね! あ、たまんないと言えば、こっちの万莉ちゃんもたーまんなくてさ」
 稔は、香兵衛につられて真継への好意をわかりやすく露わにしてしまったことに内心焦りを覚える。しかし、香兵衛はまったく気にしていない、というか写真自慢に熱中しているせいで気づいていないようだった。こっちの万莉ちゃんは流し目で、こっちの万莉ちゃんはセクシーショットで、こっちが……と、数日の間で既にスクロールバーが短くなっているフォルダを忙しなくスクロールしては、ニヤニヤとしている。
「あんた本当あの2人のこと可愛がってますね」
 ここまで来ると、可愛がっているというよりは本当にただの変態でしかない気もする。
「だって可愛いんだもん! 仲良くなりたいじゃん?」
 仲良くなるにはまず可愛がるよりも先にやることが色々あるんじゃなかろうか、という稔のもっともである意見は口にされることはなかった。というのも、言ってもどうせ香兵衛が聞かないことはわかり切っていたからだ。「香兵衛だから仕方ない」の一言に尽きる。

「ところでレンレンはさ、その2人とは仲良くできてる?」
 香兵衛は香兵衛なりにメンバーに対して気を遣っているようで、稔に限らず他の面々にもこのように探りを入れていた。
「浦和先輩と都筑先輩ですか? はぁ、まぁ、それなりに」
 問いに対して稔は先程と同じように淡々と、曖昧な答え方をする。実際のところ、稔は2人と仲良くできているとは思えていない。万莉とは以来腹の探り合いのようであるし、真継に至ってはこちらが意識し過ぎてやけに他人行儀になってしまう。あくまで「はぁ、まぁ、それなり」の具合だった。
「ま、高校ん時からの友達ならともかく、会って1か月満たない先輩と仲良くなるのは難しいかなー」
「でもまあ、2人ともフツーにいい人っすよ。そのうち慣れます」
 稔が2人に対して好意的な様子がわかった香兵衛は、なら良いんだけど、と安心したように笑って見せた。香兵衛がノートパソコンに向かって作業を再開したのを確認すると、稔は気付かれないように小さくため息をついた。
 彼は、記憶を持て余していた。
 遠い遠い過去、「自分のような人間」が生きていた時の記憶。初めてその記憶に気づいた時から現在に至るまで、ずっと考えてきた。その人間は、「自分」なのか。その人間の生があったこと自体は、平介の記憶との合致により認めることができた。けれども、そこに生きていた人間を、簡単に「自分」と言ってしまっていいのかがわからなかった。仮に生まれ変わるという事象が起きるとしても、記憶が引き継がれるなんてナンセンスだ。日常会話として「生まれ変わったら」などと口にはするけれど、実際に生まれ変わるわけじゃない。そんなものは夢を語る際の枕詞であって、身をもって体験すべきものではないのだ。だから稔は、なにがあっても「生まれ変わったら」という言葉は使わないと、心に決めていた。過去の記憶なんて、あるだけ邪魔なものだ。
 ――あんな記憶があるから、息苦しいんだ
 何度もそう思った。忌まわしいものだと思って、忘れようとした。当然、忘れられるはずもなかった。過去の「自分」が体験したことは、忘れたいと思うほどに、稔を苦しめるのに十分過ぎるものだった。だから稔はこの記憶との折り合いをつけたいと思っているのだが、結局のところどう扱ってよいかわからず、いつまでも手をこまねいている状態だった。そうやって気を揉んで、苦しく感じている時点で、その記憶を自分のものだと思っていることに稔は気づいていない。また、自分が思っている以上に稔がその記憶を大切に感じていることも、未だ気づいていない。稔は、記憶を持て余していた。




 その後も2人は特に目も合わさず、ポツポツと会話ともつかぬ会話を続けていた。
 稔は、真継や万莉同様、香兵衛に対しても、どのように接するべきか決めかねていた。しかし、このままどっちつかずの接し方を続けていてはいけないということは、わかっていた。周りにとっても、なにより、自分にとっても。だから意を決して、踏み込んだ。
「鶴見先輩、俺に対してはあれこれ心配するくせに、自分は壁、張りっぱなしなんですね」
 会話が途切れていた時にふと稔が口にした言葉は、他でもない香兵衛が、未だメンバーたちと打ち解けきっていないということを指摘したものだった。突然の指摘に、香兵衛は動揺を隠せない。軽やかにキーボードを叩いていた指をぴたりと止めてしまった。
「……そりゃまあ、僕もこう見えて照れ屋さんだしぃ。でもこれからガツガツ……」
 香兵衛がまるで弁解でもするかのように話すのを遮るようにして、さらに稔が言う。
「警戒する時、話しながら相手の目ぇじっと見るの、癖……っすよ」
 気が早いと思った。過去の「自分」の感覚と同じように、現在の5人、特に記憶のない人間に対して親しげに接するのは、気が早い。ただ、それでもいいと思った。中途半端に折り合いがつけられずにいるのなら、動かないよりは動いた方がマシだと思った。ここにきてようやく稔は、平介が焦ったように記憶の話をしたがる気持ちがなんとなくわかった。
「改めて警戒されてみると、多少は俺もへこむみたいっす」
 香兵衛のその癖は、江戸の時に気づいていた。ただそれは、自分やこの家の4人などへ向けられるものではなく、外野の他の連中に向けられるものであって、警戒される側になどなったことがなかった。
「え、ええと、そんなに僕レンレンのこと睨んでた?」
 言いたいことを言ってすっきりした稔とは打って変わって、香兵衛は今まで指摘されたことのない点を指摘されたことがひどく衝撃的で、落ち着かなかった。心を読まれてしまったようで、どこにそんなボロがあったのだろうと口元を手で覆う。
「別に睨まれたとは思ってませんよ」
「じゃあ、」
「もう少し警戒を解いてくれても大丈夫だと思います、ということです」
「ええと……」
 ただ、寂しいだけだった。軽口を叩き合えたはずである香兵衛に、警戒されてしまうということが。睦言を交わしていたはずの真継に、余所余所しく苗字を呼ばれることが。大切な時を過ごしたはずの人たちと、また一からやり直さなければならないことが。

「そういえば結構カレーの匂いしてますけど、大丈夫すか? 焦げてません?」
 窮して押し黙ってしまった香兵衛に対して、贖罪とばかりに助け舟を出す。部屋のドアが少し開いていて、そこから芳ばしいカレーの香りが漂ってきていた。夕飯のために香兵衛がカレーを煮込んでいるようだが、稔が帰宅してから既に二十分は経っている。煮込み始めたのはそれよりももっと前のはずだ。
 香兵衛は一度すん、と匂いを確かめるように鼻を鳴らすと、途端に椅子から勢い良く立ち上がった。
「うっわ、やば!」
 どうやらすっかり忘れていたらしい。慌てて階下のキッチンへと向かっていった。香兵衛がバタバタと階段を降りていく音に苦笑しながら、稔はギターケースに手を伸ばした。

 驚かせてしまった代わりに、せめて良い演奏ができるよう練習しておいてやろう。