むげんだい

main story






 香兵衛が5人の家の前に寄越したトラック――持ち主は彼のパトロンである泉岳寺だが――で運ばれてきたものは大体が段ボール箱で、個人個人の衣服や本、雑貨などの細々としたものや、自分のパソコンなどの替えのきかないものが主であった。というのも、テーブルやソファ、ベッドなどの大きな家具は既に各部屋に配置されており、持ち寄る必要がなかったのである。そうとはいえ、掃除や細かい配置、小物の片付けなどは自分たちでしなければならない。6人は早速、リビングの片付けから始めることにした。

 新八は、きょろきょろと忙しなくリビングを見回した。削られた木の匂いと、すこしの消毒臭さが鼻を掠める。新築の一軒家、目に入るもの全てが新品だ。新八にはまるで、キラキラと輝いているかのように見える。
「すげえなあ、俺たち、これからここに住むんだよなぁ。俺さ、学生のひとり暮らし……ってまあ6人だけどさ、そういうの、もっと大変つーか、ボロっちいイメージだった」
 フローリングがスベスベだ、としゃがみ込んで床をさする。丁度隣にいた真継も同じようにしゃがみ込んで床を撫でた。バランスの良い木目にうっすらと塗られたワックス、傷ひとつ無い滑らかな感触。秀逸な出来だ。お互いしゃがみ込んだまま会話を続ける。
「そのイメージが普通ですよ……なんか、至れり尽くせりですよねぇ。俺も未だに状況を呑み込みきれてませんし」
「だよなあ。えーと、泉岳寺くん? さん? にすごい出費になってるんじゃねーの? 大丈夫かなぁ」
「数千万のお金が動いてますよね……でも、泉岳寺建設って日本屈指の企業ですよね」
「あのさ、つまりさ……香兵衛っていわゆるヒモなの?」
 新八はここぞとばかりに真継に近寄り、左手で口を覆い隠すようにして小声で尋ねた。真継はそれに目を丸くして、諌めるように人差し指を口の前へ当てる。
「しー! だめですよ瀬田先輩、その、そういうのは込み入った事情があって、多分。触れちゃいけないと思います……多分」
「……そっか、そうだな。ところでさ、敬語。いらないからな? つーか先輩じゃないからな?」
 同学年であるはずの真継からの敬語に違和感を覚えた新八が指摘する。真継は決して初対面であることを気にしたわけでも、新八の学年を勘違いしていたわけでもなかったのだが、自然と出てきたのが敬語だった。真継は自分でも驚き、はにかみながら笑う。
「え? あれ、ほんとだ。ごめん」
「俺、名前の新八の『八』の部分取ってよくハチって呼ばれてるから、そう呼んでくれよ。な、真継!」
「忠犬ハチ公……! 確かにわんこっぽいもんね!」
「違うぞ?!」
 ちなみにヒモであるか否かが謎のままの当事者・香兵衛は、片付けの分担を決めるだなんだと騒いでいた。その分担が決まったらしい、呼ばれた2人は立ち上がると、いそいそと会話の輪の中に向かった。



 香兵衛の采配により平介は食器の整理と片付けを任された。段ボール箱から食器を丁寧に出し、一度拭き直してから食器棚にしまう。単調な作業であったが、6人分となると量も多く、棚に収納するのはさながらパズルのようだった。家に入るまではあれやこれやと考え込んでいた平介だったが、皿を一枚一枚丁寧に扱っていると、少し落ち着いたらしい。手元を見ながらも、ちらりと周りの様子を伺う。皿をひとセット、食器棚へしまった。


「いやー、さっすが! 元野球部は違うねぇ、力持ちぃ」
「はは、お前はひょろっち過ぎるだろ、ちゃんとメシ食ってるか?」
 キッチンカウンター越しに声のする方を見れば、新八と香兵衛がソファを移動させていた。新八は中学・高校と野球部に所属しており、日々練習に明け暮れていた。結局甲子園に行くことはなかったが、充実した生活を送っていた。大学に入ってからはアルバイトに入れ込むようになって野球はしなくなったが、昔からの癖で筋トレは今も続けている。
「重い荷物は瀬田くんに全部任そーっと。防音の部屋に楽器があってさ。移動する時はよろしくね。ドラムセットにキーボードにアンプに、もー重いのなんの」
「おう、任せとけ!」
 パシンと自らの二の腕を叩いてみせる新八に、香兵衛がかっこいいと騒いで飛び跳ねる。そんな様子もひどく懐かしく思えた。お互いに、ほんの1週間ほど前に出会ったと認識している2人だが、平介にとってはずっと昔から見ていた景色なのだ。
 ――あの頃も、香兵衛は新八に良く懐いていた。
 平介は親心のような、見守っていたいという慈しみの気持ちと一緒に、ひとセットの皿をまた食器棚へとしまった。


 新八といえば、あの頃万莉のことが大好きだったじゃないか。そう思って平介は万莉の居る方へと目をやる。万莉は、落ち着いたベージュ色のカーテン数枚に、カーテンレールへ掛けるためのフックを取り付けていた。彼に重たい荷物は持たせられないと豪語した香兵衛による仕事の配分であったが、床に座りビロードの布を身に纏うようにして作業を行う様はまるでギリシャ彫刻のようで、なるほど確かに、美しい彼にぴったりだと思った。
 万莉と新八はつい2日前に出会ったばかりだが、その2人が会話らしい会話をしているところを平介は見たことがない。平介の知っている過去ならば、それこそ飼い主に甘える犬のように新八が万莉の元へと駆け寄るのが常だった。いつも万莉は新八を適当にあしらってろくに相手にもしてやっていなかったが、それでも万莉と一緒にいるときの新八は幸せそうだった。その頃は万莉がわざわざ距離を取っていたのに、今では新八から寄ることもないから、もともとある距離をさらに遠ざけるようなこともなかった。出会って数日ならば至極当然な当り障りのない2人の距離感が、平介には作られた距離感よりも一層悲しく感じられて、ため息をこぼす。
 その時平介の視線に気づいたのか、万莉は平介に背を向けるようにして座り直した。万莉のその行動に平介自身思うところがあったのか、万莉へ向けていた視線を手元に落とした。2日前の夜、平介は万莉に記憶があるのではないかと、同じく記憶を持つ稔と共に詰め寄った。平介は自分のことで精一杯で、その時はなりふり構わず唐突に踏み込んだ話をしてしまった。以前稔と出会った時はお互いの記憶に喜んだものだったが、万莉の場合はあまり喜んでいないようであった。そもそも記憶の有無すら確かではないのだが、平介は万莉には記憶があると踏んでいた。昔から万莉は白とも黒とも言わず、「嘘は言っていないだろう?」と誤魔化すのが常套手段だった。
 だからこそ平介は、万莉と記憶を共有することを諦めてはいなかった。記憶があるのならばあると言ってくれた方がすっきりするし、かつての平介がそう感じていたように、ひとりの胸の内だけで抱えているには、あまりにも重過ぎる過去だと思っていた。とはいえ、記憶を有する人間が皆同じ思いとは言い切れない。前回は焦り過ぎて礼を欠いた。そう反省した平介は、記憶への言及はまた今度にしようと、やりきれない思いと共に、もうひとセットの食器をさらに食器棚へと押し込んだ。


 それから平介がふとリビングを見渡せば、真継がDVDレコーダーの設置を試みているようだった。段ボール箱から発泡スチロールと共にレコーダーを引きずりだそうとしている。しかし、大きさと重さが相まってうまく出せないようだった。隣でカラーボックスを組み立てていた稔が、見兼ねて手伝いに行く。「先輩は箱の方押さえててください」、そう言って代わりに引っ張り出すと、するりとレコーダーが出てきた。
「……力、弱いんですね」
 前から知ってるけど。稔はそう続けたいのを呑み込んで、からかうように笑ってみせた。
「あ、ありがとう! でも今のは力が弱いわけではなくてね、」
「はいはい」
「ちょ、蓮田くん手厳しい……」
 真継が「蓮田くん」と呼ぶ声が、平介には耳慣れなかった。真継に対する稔の畏まった敬語もまた、耳慣れなかった。そう思うのも無理はない、過去2人は想い合う仲だったのだから。稔も平介と同じように、前世の記憶を引きずって生きてきた。彼もその頃の愛しい人が、忘れられなかったのだ。その相手に余所余所しく名字を呼ばれる稔は、平介から見て寂しそうに見えた。しかしそんな寂しそうな顔をする彼は先日の帰り道、「当分過去の話を真継にするつもりはない」と断言したのだ。踏ん切りがつかないのだそうだ。
 記憶のない人間相手に前世を語るのがどういうことなのか。それが受け入れられたとして、今の自分たちの関係はどうなるのか。過去は過去で、今は今なのだ、混同できない、してはならない。けれどあの時の記憶も、紛うことなき自分の記憶。
 そう語った稔の言葉を理解できない平介ではない。無論彼も同じことを何度も考えてきた。しかし平介は、伝えなければ前には進まない、立ち止まったままではいられない、そういう風に考えていた。だから香兵衛に出会えた時は、ある程度打ち解けたらすぐに過去の話を持ち出すつもりだったのだ。けれども、出会っておよそ1週間経った今、平介は立ち止まることも仕方ないと思い始めている。平介は迷っている稔を心の中で咎めていたが、なんてことはない、彼も十分に迷い、既に立ち止まっているのだ。

「戸塚くん、ぼんやりしてるけど大丈夫? まだまだこれからだよー?」

 気がつけば隣に立っていた香兵衛に、頑張れよ、と背中を叩かれる。目の前にあるずっと触れたかった笑顔がとてつもなく遠いものに思えて、見ていられなかった。ずれた眼鏡を直すふりをして俯く。

「すまない。すぐ、終わらせる」
 前にも後ろにも進めない。情けない自分の心を隠すかのように、残りの食器をただひたすらに食器棚へ詰め込んだ。