むげんだい

main story

第2話 呼ばれる名前とホットコーヒー






 6台目のトラックをその場にいる全員で見送って、ようやく辺りが静かになった。喧騒に疲れた平介は軽くため息をついて、今し方沢山の段ボール箱が運び込まれたばかりの一軒家を見上げる。繊細な意匠の施された塀と、品の良いオフホワイトの壁、広い庭と駐車スペース。ぱっと見ただけでもそれは随分と立派な佇まいで、これからここに住むのかと思えば心も浮き立つ。しかし、今の平介には今後の生活に想いを馳せるほどの余裕はなかった。

 気を抜けば何も考えなくなってしまいそうな脳を叱咤するため、平介は家の輪郭を睨みつけるように目線でなぞった。喉が乾いているような気がして、ぐぐと唾を呑み込む。それは決してこの春の穏やかすぎる気候のせいではなく、言い様のない喜びと、それを遥かに上回る動揺からくる緊張のせいだった。


 ――今目の前にいるのは、この、俺の、目の前にいるこの人物は、香兵衛は。ずっと、記憶の中から消えず、自分が、ずっと、長い間、探していて、ずっと、会いたくて、話がしたくて、……どうしても、頭を下げたかった、人で、それで、それで。


 平介は眼鏡を外し、右手で眉間をきつく摘まんだ。混乱を振り払うように頭をふるりと一度振る。眼鏡を両手で掛けなおして、前に立つ香兵衛の後頭部をフレームの端に納めた。彼によって、平介を含む“初対面”の6人はこの家への引越しを余儀なくされたのだが、それは彼のプロデュースするバンド結成の一環であり、他の意図はこれっぽっちもないのだと言う。平介は当初、何かあると疑って掛かっていた。そうでなければ、これほどまでうまくこの6人が集まるとは思えなかった。「はじめまして」と言う香兵衛の言葉も、記憶を隠しているのではないかと疑って――否、期待して。本当は自分と同じように、過去の、遠い昔の記憶を持っているのではないかと。同じ過去を、あの時を、共有できているのではないかと、期待していたのだ。
 しかし、香兵衛は決して何も隠してはいなかったし、嘘も言っていなかった。まばたきの瞬間にも揺るがぬ瞳の色を見れば、平介には一目瞭然であった。香兵衛が嘘をついているかどうか。そんなものは、昔から平介が一番よく見抜けていた。だから、彼には記憶がないのだと、よく、わかった。それはもう、痛いほどに。



 “記憶”。人は誰しも自分の記憶というものがあるだろう。生まれ育ち、現在の自分に至るまでの記憶。それは勿論のことであるが、平介の場合はそれ以上の意味があった。前世の記憶だ。

 平介は、それを意識しはじめた頃をもう覚えていない。物心ついた頃から、ぼんやりと夢に見ることがあった。断片的なシーンが映され、そのどれもがひとつの世界で繰り広げられていた。始めは我ながらよく出来た物語だと思っていた。しかし、親にその話をした時に怪訝な顔をされて以来、何か妙だと思って口にはしなくなった。成長して中学校に上がる頃には、幼い自分が知るはずもない時代――江戸時代の文化や景色を仔細に夢に見、話せるのはおかしいということが、わかるようになっていた。
 そして何よりも、「これは夢だ」と片付けてしまうには、あまりにも鮮やかで、息づいている、生々しさがそれにはあったのだ。普通の夢のようにいつか忘れるものでもなかったし、寝ている時だけに限ったことでもなかった。道端に咲く花をふと見つければ、――ああ、あいつは鮮やかな花と同じくらい質素な花を好んで、芸に取り込んでいた――などと、思い懐かしむことが多々あった。そう、懐かしむ。夢ではない、これは、確かに自分が体験してきたこと……記憶なのだ。そう気付いた瞬間、ぼんやりと霧掛かっていた“記憶”を全て“思い出し”、涙が止まらなくなってしまったのを、平介は忘れられない。

 以降江戸時代の夢は見なくなったが、代わりに記憶は鮮明になり、そればかりが自分の心を捉えるようになっていた。それから、夢の中記憶の中、血まみれになってなおも微笑んだままだったあの最愛の人が、他でもない自分の無力のために死んでしまったのだと理解した。もはや夢の中の他人事ではなくなってしまったのだ。幼い自分には理解できなかった残酷な物語も、自分が目の当たりにしてきた事実だったとわかるようになってしまった。

 この記憶は前世の自分のもので、その自分が生きたのは今からおよそ二百年も前の江戸時代、幕末期。くだらない妄想か、自分の頭がおかしいのか。名前が同じで記憶もあるとはいえ、前世の自分はそのまま自分であると言っていいのか。幼馴染みの新八も平介にとっては前世からの仲であるが、彼はそのようなことは何ひとつ覚えていないようであるし、それが一般的というものだ。
 そんなとりとめのないことを悶々と抱えた少年時代を過ごしてきた平介だが、高校2年生になった時に事態は一転した。新入生の入学式に参列して、各クラスの担任によりただ淡々と読み上げられる新入生の名前を聞いていた時だ。新八を含む周りのほとんどの人間はつまらなそうにぼんやりとしているか眠っているかの二択だったが、その名前を聞いた瞬間の平介は、雷に打たれたかのような衝撃を得た。「蓮田稔」、そう呼ばれ気怠げに返事をした1年生の方を見やれば、遠くにあの“懐かしい”姿があった。新八以外の過去の記憶の中の人物を、ようやく見つけたのである。
 その日、ホームルームが終わるや否や彼の在籍するクラスに足を運び、お互いに顔を合わせて、確信する。過去の記憶の持ち主は他にもいたということ。そして、その記憶は妄想でもなんでもなく、本当に起きた出来事で、確かなものだったということ。安心と郷愁と衝撃とがないまぜになった感情が、胸の奥底からあふれ返っていた。



「おい、平介。大丈夫か?」
 人の声にふと平介が我に返ると、視界の端に香兵衛はもういなかった。片付けを始めるために、皆が家の中へと入っていっていたのだ。皆がそうする中、立ち止まったまま考え込んでいた平介に、新八が心配して声を掛けたのである。
「ああ、悪い」
 最愛の人――香兵衛を見つけたら、真っ先に記憶の話をしようと長年意気込んでいた平介だったが、彼は彼自身が思う以上にこの現状に参っているようだった。

 ――もう少し。……もう少し自分が落ち着いてから、話す。

「俺たちも行こう。今日は忙しくなりそうだ」
 そう平介が新八に声をかけると、新八も「おう!」と応えて笑ってみせた。