むげんだい

main story






 昼を告げるチャイムが鳴ってからほどなくして、真継の待ち人は大学の食堂に姿を見せた。真継が座っているテーブルへ真っ直ぐと向かってくるその人物に、真継から声を掛ける。
「光、2限目お疲れさま」
「ふふ、珍しいね、真継からランチに誘ってくれるなんて」
 光は真継の正面の椅子に座ると、片肘をついて満面の笑みを浮かべた。
 光の学部は課題が多く、この春2年生に上がってからは、真継が光と一緒に過ごす時間は特に減っていた。しかし、あくまで比較の問題であり、最低2日に1回はキャンパス内で顔を合わせているし、会えない日に携帯が鳴らない日はない。
「光の分も買ってくるよ。Aランチにする? 光の好きな塩サバだったよ」
「真継は何にするの?」
「俺はドリアかな」
「なら僕もドリアにする」
 にわかに混み始めた食堂では、2人で席を立つわけにはいかない。真継はテーブルに光を残し、食堂の受け取りレーンへと向かった。



 真継が稔から過去の記憶について聞いたのは、昨日のことである。香兵衛が買ってきた服で散々着せ替え遊びをされたあと、少しだけ稔と話す時間を作れた。夕食後、稔がコンビニに行くと言うので、チャンスとばかりに付いていったのだ。香兵衛と平介のこともあり、他の面々の前で記憶について話すのは躊躇われたため、稔と2人になる機会が欲しかった。また、真継の気のせいだったかもしれないが、稔と目が合って、呼ばれている気もした。
 真継は、みんなには内緒だと言って2つ入りのアイスを買って、コンビニを出たあとに1つを稔に渡した。稔は意外そうにしていたが、ニヤリと歯を見せて「ワルっすね」と一言、嬉しそうに頬張っていた。真継にとってそれは後輩との信頼の証のようで、思い出すと頬が緩んだ。稔と話せたのは、ほんの十五分ほど。その間に聞けたことは多くない。それでも、真継の探究心を満たすには十分だった。
 コンビニから帰ったあとは自室に戻って、目当てのファイルを探した。引っ越してからまだ開けていなかった段ボール箱の封を剥がし、さほど時間も掛からずそれを見つける。そこには、光からこれまでに聞かされていた前世の話を書き残したルーズリーフを挟んであった。登場人物や地名、当時の文化など、耳慣れない単語や言葉を覚えられず、光の話を聞くのに苦労していたため、ある時期からは、時々メモを取りながら聞いていたのである。
 ルーズリーフを机に広げ、稔から聞いた話を思い返しながら、単語を探す。
「會田……銀四郎先生。……やっぱり同じ!」
 光から何度か聞いたことがある人物。自分たちが通っていたという手習所の師匠だそうだ。つい先程、稔からも同じ単語を聞けた。他にも、生きた時代が幕末期であることや、住んでいた町の名前、手習所で学んだことなど、一致する点が多い。
「すごいな。前世、本当に、あるんだ」
 光を疑っていたわけではないが、2人から聞けばなおのことリアリティが増す。前世という概念が、存在したのだ。
 しかし、一致しない点もある。光は真継のことを武家の跡継ぎだったと言っていたが、稔は町医者だったと言っていた。当然どちらも心当たりはないが、定義が異なるのはモヤモヤする。
「前世がこの世界での出来事だとしたら、前世の光や蓮田くん、俺やこの家の人たちの、先祖の記憶なのかな」
 真継が昔母親から聞いた自分の家系のルーツは、父方も母方も、農家だった気がする。武家でも医者でもない。もしかしたら、この世界によく似た、別の世界での出来事なのかもしれない。
「うーん。どの世界かとかは、今は考えないようにしよう。それより、微妙に話が違うのが気になる」
 よし、と手元の携帯を掴み、ある人物へと連絡する。ものの数十秒で返事が返ってきて、明日の昼休みに約束を取り付けることができた。



 2つのドリアを乗せたトレーを手に、真継が学生たちの隙間を縫ってテーブルに戻ると、光は心配そうに真継の手に手を重ねた。
「真継、ありがとう。さっき誰かに話しかけられてたけど、どうかしたの? 誰? 大丈夫?」
 真継は何のことか一瞬わからなかったが、レーンに並んでいた時に同じ学科の人と挨拶を交わし、一言二言会話したことを思い出した。
「ああ、同じ学科の人だよ。ほら、食べよ?」
 真継が「いただきます」と手を合わせれば、光もつられて手を合わせる。
「ねぇ、最近真継はどうしてるの? 朝も全然会えないし」
 光のハスキーな声は、人の声が飛び交う食堂の中、控えめの音量でも不思議とよく通った。口を尖らせて、不満そうにしている。
「うーんと、習い事を始めた……かな?」
「そうだったんだ! なに、英会話とか?」
「ぼ……ボーカルレッスン……」
「真継が……ボーカルレッスン……?」
 今までの真継からはとても想像できない選択に、光は眉根を寄せて唖然とした。真継自身でも予想だにしていなかったため、また自ら望んで始めたわけでもないため、光が納得するような説明が出来ず、ただ苦笑するしかなかった。
「どうしてそんなこと……確かに、真継の声はすごく綺麗だし、歌声が聴けるのは良いと思うけど」
 何やら不穏なものを感じ取ったらしい光は、言葉とは裏腹に、みるみる目つきが鋭くなっていく。それに気づいた真継は、まずい、と慌てて話題を逸らす。
「そうそう! 今日ね、光に聞きたいことがあって。ほら、前世の話。また聞かせてほしいな」
 真継からの思いがけないリクエストに驚くが、光は前世の話を聞いてもらえることが嬉しくて、少し機嫌を持ち直す。
「もちろん! 最近思い出したことだと、真継の弟が外で大喧嘩して帰ってきた日のことかなぁ」
 前世の“真継”に弟がいたことは、以前から光に聞いていた。大喧嘩のエピソードも気にはなるが、今真継が知りたいことは、はっきりとしている。
「それも聞きたい……けど、今は他に聞きたいことがあって。手習所の頃の話。光と俺以外の筆子のことって覚えてる?」
「は?」
 スプーンが落ちて、鈍い音を立てた。幸い、トレーに落ちただけでこぼしてはいない。代わりに、光の黒いような紅いような、じっとりとした怒気がドロドロと零れ出す。
「……真継、それ、どういうこと」
 ヒヤリと、4月末のランチタイムには似つかわしくない冷気を感じた。閉塞感が真継の全身に纏わりつく。
「あ、あの。はす……えっと、」
 稔の名前を出すのは愚策と判断して、真継は咄嗟に言葉を濁したが、効果はなかった。
「……そう、蓮田に会ったんだ。僕以外にも記憶がある人がいたとはね。どこで? 今連絡付く? 会いたいなぁ」
 真継はこれまでも光の言動に煩わされることはあったが、今日は一段と手に負えない。一番大きな地雷を、思い切り踏み抜いてしまった。
「真継、何か隠してるよね。習い事の件もアイツが関わってるの? 言って」
 光の有無を言わさぬ圧力に、下手な嘘や誤魔化しはしない方がいい、と観念する。
「……それは、蓮田くんじゃなくて香兵衛……鶴見くんに誘われて」
 そもそも真継は、実家を出て6人で暮らしていることを、光に伝えそびれていた。光がそれを聞けば反対して、香兵衛に喧嘩を売りに行きそうで心配だったのだ。引っ越してから日数が経って、いよいよ伝えるタイミングを逃したまま、今日に至った。
「あのバカまでいるわけ? ねェ、それで?」
「……つい最近ルームシェアし始めた。俺と香兵衛と蓮田くん含めて、6人。……ごめん、言うの遅くなって」
 光は真継の物ではない。謝るようなことではなかった。しかし、真継に対してすべての共有を求めてきた光には、あってはならないことだった。光にとって、真継は大切な大切な、穢してはならない唯一無二の命だった。
「真継。駄目だよ。そいつらとつるんじゃ駄目。言わなかった僕が悪かったかな。でも、真継は知らなくて良いんだ。真継、実家に帰ろう?」
 説得か懇願か、光はテーブル越しに真継の手首を掴み上げて、強く握った。光の怒りが、震えになって真継の手首に伝わってくる。しかし、一度こうと決めたことを、やすやすと曲げる真継ではない。
「……帰らないよ、光。みんな、いい人たちなんだ。心配してくれてるなら、杞憂だよ」
 どうにか光を落ち着かせようとするも、光の一度零れた感情は、とどまることを知らない。食堂の一角が、徐々に騒然としてくる。
「どうしてあいつらを庇うわけ?! 真継が知らないだけで、ロクでもない奴らなんだよ!」
「ちょ……失礼だよ光、そんなことないってば」
「ある! あいつらは人殺しだ! 真継の人生をめちゃくちゃにしやがって!」
「なっ……」
 人殺し。あまりに強烈な単語に、真継は息を飲んだ。

「まーまー、まーまー。そこまでー」
 ふいに現れて、のん気な声で仲裁に入ったのは新八だった。
「お前ッ……」
「ハチくん!」
「悪ぃな、手、離してやってくんねーか?」
 新八は、真継の手首を容赦なく握りしめる光の腕を掴んで、声を掛ける。にこやかに振舞っているが、光の腕を掴む力は極めて強かった。痛みに耐えかねた光がやむなく手を離す。
「また僕の邪魔をする気か……」
 ぎり、と唇を噛む。光にとっては、稔や香兵衛だけでなく、新八すらも知った顔であった。しかし、新八に前世の記憶はない。光を見てピンとくることもなかった。
「……あ、なぁなぁ、あれ、あれ見て!」
 新八は突然あさっての方向を指差して、視線を誘導する。真継や光、野次馬までもが、一体何かとそちらを向いた。
 光がハッと気がついたときには、新八が真継の腕と荷物を持ってこの場から逃げ始めていた。
「劇の練習はまた今度なー!」



「いやー、古典的な罠も、案外効くもんだな!」
 走って走って、新八と真継の2人は電車に乗り込んだ。ここまで来れば、光も追っては来ないだろう。
「荷物、持てるか? 腕引っ張っちゃってごめんな、痛くないか?」
 言われて真継が袖をまくって自分の腕を見ると、光に掴まれた手首に痕が残っていたものの、他に大事はなさそうだった。新八から渡されたショルダーバッグを受け取って、肩にかける。
「午後の講義すっぽかすことになっちゃったな」
 ごめん、と苦笑いする新八に、むしろこちらが謝るべきだと真継は首を横に振る。食堂でかなり目立ってしまったが、新八の発言により「劇の練習かよ」とギャラリーが散っていくのが横目に映った。
「ハチくん、ありがとう。光にも気を遣ってくれて。……俺の幼馴染みなんだ」
 力なく微笑む真継に、新八は目を見開く。
「そうだったのか?! てっきり変なのに絡まれてるのかの思って俺……あ、いやお前の幼馴染み悪く言うつもりじゃないんだけど」
 新八がわたわたと弁解するが、絡まれていたことは事実なので、気にしないでと伝える。真継は、仲裁してくれた新八に事のあらましを説明したかったが、何が起きたのか真継も理解しきれていなかった。光は、香兵衛や稔の名を聞くや否や、烈火のごとく激高した。それが前世が絡んでいることまではわかる。そして突如吐かれた「人殺し」という言葉。
 見たこともない光の態度や、前世に関する思わぬ情報に、前世に興味が湧いていた真継も、すっかり参ってしまった。幸いにして、光は新しい家の住所を知らないし、明日からはゴールデンウィークに入る。時間の問題ではあるが、光と距離を置く時間が多少は取れるはずだ。
「なあ真継、せっかくだし家でのんびり過ごそうぜ」
 ふとすると涙を零してしまいそうな真継には、新八の気遣いが救いだった。



 真継が新八とともに帰宅したあと、光から連絡が来ることはなかった。嵐の前の静けさのようで安心はできなかったが、どれだけ取り乱したと言っても、自分の幼馴染みである。落ち着いて話す機会をいつか作りたい。しかしそのためには、まず真継自身が平常心を取り戻すことが先決だった。
 真継は机に出したままだったルーズリーフに、ぼんやりと目を通す。
「昔は光に、思い出せって言われたこともあったけど……」
 その願いや虚しく、思い出せたことなどひとつもなかった。
「江戸、前世、手習所、医者……」
 何も。何ひとつ。

――思い出せない。