むげんだい

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おいしい紅茶

 講義を終えて帰宅すると、リビングのソファから顔を覗かせて出迎えてくれたのは、瀬田先輩と真継先輩だった。
「おう、稔、おかえりー!」
「おかえり、寒かったでしょ? 手洗いうがいしておいで」
「っす」
 医者だった時の記憶のせいか、ただオカン気質なだけか。実家のババアみたいなことを言う先輩は、ゲームのコントローラーを掴んでご機嫌だ。
 最近発売したゲームは先輩のお気に入りで、マルチプレイが出来るらしい。暇そうなメンバーを捕まえては、今のように一緒に仲良くテレビにかじりついている。先輩の指導の甲斐あってか、ド下手くその瀬田先輩でも、ゲーマーの先輩についていって楽しめている。

 部屋に荷物と上着を置いたあと、しっかり手洗いうがいを済ませる。リビングに戻ると、キッチンで先輩が紅茶を用意してくれていた。「ちゃんと新しい茶葉に変えたよ」と、ドヤ顔で特別扱いしたみたいに言ってくる。ゲームをしている間、無精をして同じ茶っぱをいつまでも使って、最後の方はただのお湯みたいなもんを飲んでいるのを、俺は知っている。手にしたカップには、綺麗な紅色が揺らいだ。冷えて赤くなっていた鼻先を、湯気が温めてくれた。
「あざーす」
「稔もこっち座れよ、俺すごくうまくなったから見て!」
 瀬田先輩がデカい体をソファの端に寄せて、手招きする。3人掛けなんだからそんなに寄らなくて良いのに。
「じゃ遠慮なく」
「「そこ?!」」
 真ん中にふんぞり返って座ると、2人からすかさずつっこまれた。先輩が俺の行動をネタだと思って面白がって笑うから、尚のこと、さっきまで2人くっついて座っていたのが気に食わない、なんて口に出したくない。瀬田先輩が座ってたせいで座面が生温かいのも我慢する。
「稔もやる?」
「見てるからいっす」
 先輩にコントローラーを差し出されるが、そこまで興味もないし、俺よりよっぽどやりたい先輩がやればいい。興味のなさそうな俺を見た先輩は、コントローラーを握ると俺の隣に腰を下ろした。

 2人がきゃっきゃと楽しくゲームをしている様子をしばらく眺めていると、ゲーム中のプレイヤーが二手に分かれるシーンが出てきた。
「え! 真継ついて来てくれないの?」
「ここから2マップ分は、ハチ先輩だけで攻略するターンですよ。大丈夫です、ハチ先輩めっちゃうまくなりましたもん!」
「へへ、そうかなー」
 先輩におだてられたチョロい瀬田先輩は、嬉しそうにゲームを続ける。その間先輩はやることがないらしく、コントローラーから手を離した。
 今だ、と思って先輩の方を伺うと、俺より先にこっちを覗き込んでいた。先輩は、こっちが覗き込もうとすると恥ずかしがってそっぽを向くくせに、自分からは平気でしてくるから癪だ。
「……」
 音もなく、微笑まれる。それだけでドキドキしてしまう自分の心臓が嘆かわしい。ムカつくから、垂れ眉のついた額にデコピンを喰らわせてやった。
「痛!」
「痛いってほど強くしてないし」
「こいつ……って、ちょ」
 額を押さえて不服そうな先輩の肩に、頭を乗せる。この人わかってんのかな。俺が今、甘えたいってこと。わかんねぇんだろうなぁ。
「み、みのる、」
「え?」
「ちかい」
「なに」
 至近距離にいる俺にしか聴こえないようぽそぽそと囁く。聴こえないフリをして、先輩の首筋に俺の唇が当たるくらいに顔を近づけたら、先輩の身体がギュッと強張った。瀬田先輩がいるのにくっついているのが恥ずかしいんだろう、笑えるくらい狼狽えている。わざとらしく腰に手を回してみたら、先輩の顔がワッと赤くなった。体温が上がって、じっとり汗をかいて。ウケる、蒸気が見えそう。
 下唇を噛んで耐える先輩の身体が熱を持ったせいか、良いにおいが滲んできた。甘ったるくてまろやかで、少しスパイスが効いたような先輩の体臭。嗅ぎ慣れた、俺の好きなにおい。そういえば、何かのにおいに似てる気がする。なんだっけ。
「あ、」
「な、なに」
 わかった。ロイヤルミルクティー。じゃなくて、チャイ。今日みたいな寒い日にうってつけの、身体が温まるおいしい紅茶。そう思い当たった瞬間。

 ずぞぞぞ、と音を立てて先輩の首筋をすすっていた。

「フギャアァ!!」
「うわっ、どーした真継?!」
 飛び退いた先輩は、ソファから転がり落ちていた。俺にすすられた部分を手で押さえてワナワナと震えている。笑いを必死に堪える俺の体も負けじと震えた。
「な、なな何してんの?!」
「あー、なんか飲めそうな気がして」
「マジで何してんの?!」
「いや、真継もどうした、落ち着け?」
 ゲームに集中していた瀬田先輩には、突然先輩が奇声を上げてすっ転んだように見えたはずだ。先輩は恨めしげに俺を睨む。――元凶はアイツなのに、それを説明したらイチャついていたのがバレてしまう――なんて思っているんだろう。堪らなく愛しくて、自然と口角が上がってしまう。とっさに口元を手で隠したが、遅かった。
「ニヤニヤしてんじゃねーよ!」
「ふひひサーセン」
「ハチ先輩もゲームオーバーんなってるし!」
「あッ!! ごめん!!」
 瀬田先輩に八つ当たりして、口をへの字にしてむくれている姿が子供みたい――って、言ったらもっと怒りそう。言おうか、言わまいか。

 この可愛い人をいじるのは、200年経ってもやめられない。